ロシア経済危機とクリミアの話(2)

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かつてウクライナは大国だった

かつてウクライナとその都キエフは、全ロシアの中心地でした。それがモンゴル軍に徹底的に破壊され、以降ロシアへとあるじを変えました。ウクライナはかつて、ポーランドと組んで強国となった事もありますが、かつての栄光だけが取り柄の国は、始末が悪いものでしょう。

こういった経緯を、いわゆる西側首脳のお歴々は、おそらく知らないでいるでしょう。アメリカほぼ確定で、IBリーグを出たような人でも自国と西欧以外、興味がないから歴史をほとんど知らないようですから。だからロシア人がクリミアを返せと主張したところで。

「セバストーポリが駄目なら、ロストフ・ナ・ドヌーあたりに軍港作れば」などと、平気で言い出しかねません。こういうのを、無知に基づく逆なでというべきでしょう。日本と違ってロシアは二次大戦の戦勝国で、へいへいとアメリカの言うことを聞いてはくれません。

だからロシアは兵を出し、制裁されたわけです。翻弄されるウクライナも堪らないでしょう。領土問題は結局は力が決めることではありますが、アメリカのように偽善で自分だけがいい子になる気持ちよさは、気持ちが良ければ良いほど、踏みにじられる者の屈辱が増すものです。

ロシア=ウクライナ関係小史


ここで地図をご覧下さい。北から首都キエフを通り、国土をほぼ二分して南下しているのが、ドニエプル川。ロシア語・ウクライナ語・ベラルーシ語を合わせて、東スラブ語といいます。この言葉を話す人々が、最初に国らしきものを作ったとき、その中心地はキエフでした。

それは黒海・ドニエプル川を通じ、東ローマ帝国の首都、コンスタンチノポリス(現トルコのイスタンブル)と繋がりやすかったからでしょう。当然正教会の本山も、長くキエフに置かれました。だから「中心」の意味でウクライナは、小ロシアと呼ばれたわけです。

ところが13世紀、モンゴル軍が押し寄せて、キエフを粉々に砕きました。

政治や文化を担う人々はちりぢりになりました。モンゴルにかき回されたのはキエフばかりでなくロシア全土でしたが、それでもぽつぽつと、街らしきものが生き残りはしました。やがて一息つくと、それらは互いに争い、中でもモスクワ市が有力になりました。

そんな頃、モンゴルがかつての勢いを失い始めました。そこへ西から攻め込んだのが、他ならぬポーランドです。モスクワはこの攻勢に耐えましたが、キエフはポーランドの手に落ちました。つまり長いこと、ウクライナはポーランド領だったのです。

しかしウクライナと言ってもそれは、西からキエフ周辺まで。言い換えれば、ドニエプル川までが当時のウクライナで、そこから東はさまざまなスラブ・モンゴル・トルコ人が、半農半牧で暮らす雑居地でした。後の『静かなドン』の舞台でもあります。

コサックたちの「荒野」

皆さんは、ロシア民謡「ポーリュシュカ・ポーリェ」Полюшко-полеをご存じでしょうか? アニメ『ガールズ&パンツァー』で紹介されて以降、日本でも少しは知られるようになったのが、私ごときロシア趣味者にとっては嬉しい話です。その冒頭はこう呼びかけます。

Полюшко-поле (ポーリュシュカ ポーリェ)
荒野よ 荒野
Полюшко, широко поле (ポーリュシュカ シローカ ポーリェ)
果て無き荒野よ


時代的にはソ連時代の歌ですが、ここで呼ばわれている「荒野」は、ヴォルガ川・ドニエプル川・ドン川という、まれに見る大河の恵みに恵まれた、だだっ広い草原を指します。恵まれているだけに17世紀以降、この地はロシアとトルコの争奪地で、あるじが確定しませんでした。

だからこそロシア・トルコだけでなく、各地の軛から逃れようとした自由民が集まり、あるいは耕しあるいは家畜を養いながら、後にコサックと呼ばれる集団を作っていったのです。現在ウクライナでその地を「荒野」Дике Поле(ジケ・ポーリェ)と呼ぶのは、その名残です。

しかしモスクワ市が強大化し、ロシア帝国が成立すると、ロシア人はドン川を伝って南下、ドニエプル東岸からトルコを追いました。その戦いに加わった主力はコサックたちでしたが、生活の必要からロシア帝国の傘下に入り、ロシアは西岸からポーランドを追いました。

こうしてウクライナは再び、ロシアと一体化しました。しかしポーランドを通じて西欧文化に接したウクライナ人は、もはやロシア人を自分たちと同じ人々とは見なせなくなっていました。逆もまた然り、かつて尊称だった「小ロシア」は、文字通りの蔑称になりました。
(つづく)

おまけ:筆者訳中国語版「ポーリュシュカ・ポーリェ」

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