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論語と算盤 干戈
孔子存命中の塾は、青白い文弱の徒の集まりでは無い。士族は戦時には、将校として前線に出ねばならなかったからだ。弟子のゼン有やハン遅の武勲は、『左伝』に記されている。孔子没後に一派を作った曽子らは別として、主要な直弟子のほとんどは、武器を執って戦ったのだ。

事を本朝に移して考えてみるといい。孔子塾同様、極めて政治思想性の強い武力集団であり、成り上がりに燃えた若者の集まりだった新撰組は、すさまじいほどの内部抗争と血の粛清に明け暮れた。革命政党が生き残るにはまず、内部の不和を火消しして回らねばならない。

権力の後ろ盾があっても、新撰組は内ゲバで半ば自滅した。後ろ盾が孔子個人の魅力しかない孔子塾なら、塾内不和こそ大敵で、それを和ませた顔回に孔子は感謝を述べている。そうした背景を考えれば、本章を無名を恨む言葉として理解する必要は何もない。

…古典日本語も日本語で、アルゴリズムで現代語に化けるからだ。言い換えると翻訳機を通した時、現代日本人がわかる日本語になっている。曖昧さを排した時枝文法を知っている者なら、だれでもうべなうと確信する。恣意極まりない文系学問に、数少ない数理の光だからだ。

…本当に孫子の言う通り商えば、収監されるのは必定だし、老子はどうとでも解釈出来ることしか言わず、荘子は他人の誰をもバカにし切っている。易は金箔付きの黒魔術だ。漢文業界人はそれを知ってか知らずか、聞こえのいいように書き換えて、読者を食い物にしているだけ。

論語001学而篇第一(1)学びて時にこれ習う

朱子の生きた宋帝国では、儒学が他学派を完全に圧倒し、官僚兼政治家のほぼ全てが、儒教的知識人=儒者で占められるようになった。縁故では無く自力で這い上がってきただけに、儒者は万能感に包まれていた。ゆえに開祖の孔子をも凌ぐ、高慢ちきになるのも当然だった。

現代日本でも、心底小ばかにしつつ「コクミンのミナサマ」とか棒読みで言う役人には腹が立つが、国会で「下民」と言いでもしたら、当然当人はクビだろうし、政権そのものが倒れかねない。それに限りなく近い所だがなお踏みとどまるのが、せいぜいの良心と言うべきだろう。

朱子にはその最小限の良心すら無い。

時代が違うと言えばそれまでだが、民を保護しない政府は政府の資格が無い。これは古代も変わらない。朱子の生まれた頃の皇帝徽宗も、道楽にうつつを抜かした挙げ句に国を滅ぼしたが、最後の最後になって「ごめんなさい」と民に謝った。朱子が知らなかったはずが無い。


恩倖持權,貪饕得志,縉紳賢能陷於黨籍,政事興廢拘於紀年。賦歛竭生民之財,戍役困軍旅之力。多作無益,侈靡成風。利源酤榷已盡,而牟利者尚肆誅求;諸軍衣糧不時,而冗食者坐享富貴。災異謫見而朕不悟;衆庶怨懟而朕不知。追惟己愆,悔之何及!…咨爾萬方、體予至意!


朕が気に入った者ばかりをひいきしたので、そやつ等が得たりとばかりに社会を食い荒らし、世を善導すべき儒者たちも、派閥争いばかりに身をやつした。政治は放置されてしまい、時運の上がり下がりも干支次第というありさまで、政府は何の役にも立たなかった。むごい取り立てに諸君は苦しみ、むやみにその身をこき使われたので、戦いに耐える者とてなく、国軍はガタガタになってしまった。政府のやることなすこと無駄ばかりで、そればかりか浮ついた風潮ばかりが世に流行った。社会の資源は尽き果てたのに、暴利を貪る連中がはびこって、さらなる取り立てを激しくした。それゆえ国軍には兵粮も軍衣も行き渡らず、なのに何一つしない連中ばかりがますます富み栄えた。天災人災が度々起こり、朕の目を覚まさせようとしたにもかかわらず、朕は悟らず放置した。諸君に怨まれていることすら気が付かず、ついにこの有様だ。今になってどんなに悔やもうとも、もう取り返しがつきそうにない。…ああ民百姓の諸君、どうか朕を許してくれ!(北宋徽宗「罪己詔」)


徽宗だけではない。朱子の仕えた宋の開祖趙匡胤も、主君だった高宗も、政治の不行き届きを民にわびた。それゆえだろう、北宋の滅亡を救わんと、民百姓はこぞって義勇軍に参加した。政府との信頼が徹底的に損なわれている現代中国には、あり得ないけしきがあったのだ。

だが孔子は実際に司政の経験がある政治家で、ほこり臭い書斎に引き籠もっていた曽子や朱子とは違う。為政者が立派に振る舞ったからと言って、民が感化されるなどとは期待しなかった。いくら古代人だろうと、悪事は千里を走るが善事はふにゃチ○と知っていただろう。
論語 士 字解 論語 士 字解

中国の庶民は、そんな可憐な生き物ではない。先史時代の遺蹟から、殺された女王が発掘されたことがある。その模様はあまりにむごたらしいのでここには書かない。有史以降も、食えなければ群がって襲いかかった。経済動物扱いの歴代政府と、ものすごく息が合っている。
論語 械闘

だから曽子はありもしないことを言っている。本気で言っているなら、頭がおかしいと言うしかない。もし気は確かで偽善を他人に押し付けているなら、とんでもない悪党と言わねばならない。仮に論語の本章が史実だったとして、生前は誰にも相手にされなかったのではないか。

本章の言葉は、そうした日陰者の妄想に過ぎない。その手のまちのその手の店では、ヲタの諸君が大勢集まり、楽しそうにヲタ話をしている。まことに人畜無害なけしきで結構だ。だがヲタにしか通じぬからヲタ話で、世間一般にはヨタ話だ。決して賢者の格言ではない。

それを論語業界は格言だと主張する。とても如何わしく感じる。現代中国での解釈もまた、人民純情説に立っているように、民を経済動物としかみない強固な意志が、今も業界人に根付いているらしい。だが日本は口を閉ざさぬと命が危ない国ではない。ヨタを与太と言っていい。

だから古典の解釈は自由に、かつ読み手に誠実であるべきだ。

論語009学而篇第一(9)終わりを慎み



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