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孔子の父は、魯国の代官という事になっているが、後世のでっち上げに過ぎない。ただ代々続く武人の家系だったようで、父も怪力無双の軍人として聞こえていた。父の没後、孔子がなぜ武術の達人になれたかの理由は、兵営で父の戦友に教わったと考えるしか理屈が立たない。

近代以前、武術は軍事機密で、平民が習えるものではなかったからだ。

その孔子に対面した子路は「孔子の品格に打たれて」弟子入りしたことになっている。訳者に言わせれば、ケンカの一つもしたことが無い文弱の徒のたわごとだ。「しまった」と思った子路に、「ホオ。では庭に出なさい」と孔子は言い、ボコボコに叩きのめしてしまったのだ。

勝手に人の家に押しかけてくるような奴が、人格など見る目があるわけがない。そういう子路が心服したからには、徹底的にブチのめされたと考えるしか無い。晴れて孔子の初の弟子となった子路は、生涯孔子に付き従い、身辺警護も務めたし手足となって働きもした。

「剛毅木訥、仁に近し」(論語子路篇27)。子路は教えを、最も体現した弟子の一人だった。

論語 子路 驚愕
子路の入門伝説に近い話は、合気道のお祖師様のお一人にも同様の伝説がある。戦前の中国で武者修行中、山奥からじじいが天秤篭を担いで「ヒョッヒョッヒョッ」と降りてきた。何を思ったか若き日のお祖師、「このジジイをぶちのめそう」と考えたらしい。ところが果然。

じいさんにボコボコに返り討たれ、その場で平伏して「弟子にして下さい」と願ったという。こんにちポンニチの要人警護のSPは、必ずそのお祖師様の流派で学ぶことになっている。訳者は道場で彼らと拳を突き合わせたこともある。その技の淵源はヒョッヒョッヒョッにある。

ゆえに中国じじいは、侮るべきではない。

論語詳解033為政篇第二(17)由なんじに知るを

例えば東京帝國大學法科大學とは、現在の東大法学部の前身で、同様に官界エリート養成機関だが、その教授を長く務めた上杉慎吉は、本物の狂人だった。天皇を神だと言い、国家そのものと教えたが、講義中に学生から「では天皇が外遊したら日本も引っ越すのか」と問われ。

上杉慎吉
何やら意味不明のことを教壇からわめいたという。加えて同じ東京帝大だろうと、文学部は事実上無試験で、金さえあれば誰でも入れた。全国の帝国大学の入学定員は、旧制高校の卒業者の数と、ほぼ一致していたからである。むしろ中学・高校入試の方が厳しかったらしいが。

学習院高等科のように、これまた金さえあれば誰でも入れる裏口があった。そこから帝大文科に進んだ連中のうち、世間のあこがれを集めた者どもを、文学の世界では白カバ派という。自称が何やら白痴に似ているように、かぼちゃやなすびの絵を描いて、世間をたぶらかした。

バカらしき村と聞こえるようなのも作り、憲兵と特高にいじめられない程度の肥溜め臭い活動もやった。いじめられなかったのは、おじゃる公家の特権とコネを生かして、ごろつき役人に過ぎない特務どもを震え上がらせたからである。これが戦後左翼の堕落の一因ともなった。

カネの風味をかがされて、たぶらかされた世間はたまらない。いかれた貧民の群れが不相応な野望を抱き、それを受け貧乏人の支持を得たい原敬が、世界史上偶然の金余りに乗り、裏口を拡大した。結果あちこちの大都市に、金さえあれば帝大文学部に這入れる入り口が出来た。

言い方によれば、馬鹿と気違いの集まりを、日本の支配層に押し込んだのだ。

訳者は本郷辺りにある国立大学の、文理各科一通りの出身者と付き合いがあり、その幾人かは切っても切れない近しい関係にある。半分は阿呆といってよいが、さらに裏口のなれの果てを出た者で、脳みそと心のまともな人間に会ったことが無い。私はよほど運が悪いのだろう。

さてある意味日本は、原敬のもくろみ通りになった。成り上がりだが気違いでもある松岡洋右は、自分の手柄にならぬからと言って、「満洲程度なら独り占めしていいよ」と申し出たルーズベルトの提案を蹴り飛ばし、日本がアメリカと戦争をせざるを得ない状況に追い込んだ。

だから国語の教科書に載る文人が、必ずしも模範とすべき脳みそを持っていたわけではない。現代との違いを言えば、より漢文が流行っていただけ。「八紘一宇」に代表されるような、人をたぶらかすスローガンは、今なら「マニフェスト」とか英語で言われる違いに過ぎない。

論語詳解015学而篇第一(15)貧しくしてへつらわず

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