私がイエスを偉いと思う理由

神は人間のこしらえ物で、ゆえにイエスを気違いと断じるのは暫定的に正当だ。だが2,000年前に私が生まれたと仮定したら、神をそう断じることなどとても不可能だったろう。偉そうにものを言う現代人は、とかく巨人の肩に乗っている事実を忘れがちだから。

私はまだ人を斬ったことがない。だが斬れるとは何かの自分なりの納得がいく程度には、稽古を積んできた。それゆえ、世間がたかがナイフ男程度に騒ぐのを不愉快に思わないでもない。その不愉快の多くの成分は、あたら勇士が、という鎮魂を願う痛ましさから来ると白状する。

ナイフ男が出るたびに、女子供がいたぶられるのも痛ましくはある。だが、その場で勇気を出して立ち向かった勇士が、たかがナイフの何たるかを知らなかっただけで、むざむざと命を散らしたことを思う。私だってナイフは怖い。立ち向かう勇気はなんと壮烈であろう。

そうした下らない考えの全てを、イエスはあっさりと消し去った。「つるぎをさやに収めなさい。つるぎに生きる者は、全てつるぎに死なざるを得ないのだから。」少なくとも私が教えを受けた流派では、平素の温和をことのほか強調した。抜刀納刀のたびの礼はそれゆえだ。

私が先々代の帝を、暗君と断じるのはそれゆえでもある。日本を壊滅的な敗戦へと引っ張ろうとする文武高官の馬鹿どもを、明治帝ならぶった斬ってそれで終わりだ。維新と共に全大名から召し上げた業物を、毎日いじるのが趣味だったからには、それぐらいのことはやった筈。

テロリストの集まりである明治政府を、まとめきった事実が示している。

黒田清隆の夫人斬殺事件を、無かったことにした明治政府なら、「聖上奸物をお手討ち」と発表しておしまいだろう。そして明治帝は維新以降も、竹橋事件のように目の前で自分に銃口が向けられる経験をくぐった。あぶない臣下を手ずから斬る用意なしで、平気ではいられない。

だがそれでもイエスは言う。「つるぎをさやに収めなさい。」

つるぎを抜く準備無しに、この言葉を聞いても空しく響くのみ。わたしも、危うく人を殺しかねない危険は何度かあった。その数程度には、人に殺される危険をなんとか這い逃げてもきた。だから心底、殺し殺されるこの世の無残から、逃れる法は無いものかと乞い願う。

イエスの福音書の翻訳で、もっともよい日本語は、岩波文庫に所収のそれである。しかし訳された先生は、真に神を愛する方のようで、空襲に斃れた助手さえも、神のみ計らいと信じて疑わないようだ。先生の誠実を私は疑わないが、ただし真正の気違いだと断じてためらわない。

「つるぎをさやに収めなさい。」神さえいなければ、きっとイエスを信じるのに!

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