愚痴はなぜ愚痴か

人間は人でなしがデフォルトである。精神医学の分野では、とうにそれが前提だと聞いた。だから他人に自分の苦境を告げるのはバカげている。人は自分も同じ目に遭わない限り、ひどい目に遭った話を面白がって聞く。そうで無い場合は、話し手がウソツキだと考える。

そのように人間は出来ている。他人の貧乏鶴の味、はほぼ例外なく通用する。そしてウソツキ扱いしない場合も、苦境にある人の、その原因はその人がバカだからと考える。その不運は自分には無関係と捉える。そして眼前の不運な人を、自分が利口である証拠として面白がる。


愚痴とは分解すると、愚かと痴(痴呆)で出来ている。同様の意味をもつ漢字を組み合わせた熟語である。愚はものまねザルを意味する象形である。痴は後世成立の形声、病気としての愚かさを意味する。現代語ではその意義は薄れたが、もともと差別から生まれた言葉である。

サルを見下すのはまだ倫理の範囲内かも知れない。だが病人を笑うのは不道徳になる。なのに不運を笑うのは不道徳とされない。口に出した途端、手ひどい反撃があり得ないと、人は平気で差別を言う。薄毛をハゲと平気で言う。言う奴は人間のクズだという自覚はあるまい。

ゆえに他人を見て自分の道徳を形成するのは、世を生きる世間知になる。ハゲをハゲと言い回ってもかまわない。何ら損をしないからである。しかし自分の倫理を形成するには、まるで役立たない。世間知しか持たない者が、倫理を持つ者をバカにする。世間知的にそれは正しい。

だが世間知しか持たない者の、説教を聞く必要はまるで無い。そ奴はサディズムの発露を楽しんでいるのであり、我を消耗して喜んでいるからである。さらに世間知しか持たない者が、その世間知を他者に公開することはほとんど無い。我利しかないから言うに言えないのである。

そして九分九厘の人間は、冒頭の通り人でなしである。だから人の話など聞いても、良い事などありはしない。人に話をしても、良い事などありはしない。聞くべき人から聞くべき事を聞き、語るべき人に語るべき事を語るのみ。ゆえに世間の理解など、間違っても求めない。

それは不幸しか生まないからである。

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