本日の改訂から

君子とは何か

孔子の生前、君子とはすなわち貴族=国人のことだった。孔子の弟子は司馬牛のような例外を除けば、全て平民の出で、周の古い制度では野人と言われる存在だった。野人は元来国権に従わず、秦の穆公(位BC659-BC651)が乗馬を奪われて手を出せなかった故事が知られる。

ただし『史記』は話が出来すぎており、辺境の秦と中原の魯を同一視することも出来ないが、『左伝』に記された曹劌の故事によれば、荘公(位BC706-BC662)の時代、平民=野人は徴兵されず、もっぱらいくさは戦車戦で、従って武術と戦車術を心得た貴族の仕事だった。

世の東西を問わず、貴族は坊主を除けば、戦士である。周代の貴族とは領地を持った卿・大夫ばかりでなく、商工業に携わる都市民、つまり士族をも含んでいる。士族は国公位の継承などの重大事に発言権がある代わりに、戦時には最下層の戦士として従軍の義務を負った。

戦車の乗員には階級差があった。武芸に励む余裕のあった卿大夫は、揺れる車上で射撃と打撃を担った。御者は士族が担当した。「執鞭の士」が、偉くない職業として論語に載るのはそれゆえだ。商人は普段荷馬車を扱っただろうし、職人も馬車の扱いに慣れていて不思議は無い。

だが次第にいくさのやり方は変わり、主力が戦車ではなく歩兵になってくる。

論語 戈 論語 矛
孔子の生前、哀公十一年(BC484)魯は斉と戦ったが、総大将を務めた孔子の弟子、冉有は、防衛戦から突破線に移る際、兵に武器を持ち替えさせ、ではなくボウで突撃させて戦勝を得ている。戈はもと戦車の装備品で、敵兵を戦車から引きずり下ろすのに適した形をしている。

その戦車が突破線を戦うなら、これまた装備品である矢を射かければ良い。つまり矛に持ち替えたという事は、主力が戦車ではなく歩兵だったことを意味する。そしてその戦術を冉有に授けたのは孔子だった。戦車は指揮官が乗って指揮に当たったり、偵察用の兵器になっていた。

また哀公八年(BC487)、攻め寄せた呉軍を迎え撃つのに、魯は「卒三百人」を動員して夜襲を掛けようとしている。卒とは雑兵のことで、もちろん戦車の乗員ではないし、士族を含む貴族でもない。国が用意した弩などの武器を持たされ、徴兵されて戦う平民の歩兵である。

経験のある方はご存じだろうが、弓は当たるものではないし、引き絞るには膂力も要る。だが弩(クロスボウ)なら素人でも当たるし、弦を一度引くだけの力で済む。弩は『論語』と同時代の『孫子』が初出で、弩の登場によって戦のやり方と、社会構造まで変わることになった。

ギリシアで重装歩兵の出現と共に貴族制がくずれ、ローマでエクイテス(騎士)の没落とケントゥリア(兵員会)の発言権向上が同時に進んだように、古代の軍は人を平等にする。中国も同様で、それまで都市民=貴族=戦士だったのが、平民に政治的発言権が生じるようになる。

社会の底辺に生まれた孔子が、魯国の宰相格になったのはまさにその象徴で、孔子塾は当時の身分制を乗り越えたい平民が、貴族に必要な教養と技能を身につけるための塾だった。従って君子とは、塾生が目指す貴族のことで、今日の予備校で大学生と言うのに等しい。

つまりその程度の存在で、哲学的意味など全く無い。下世話な言い方をすれば、基本は素手で人を殴り殺せることで、あとは読み書きと四則演算が出来ればとりあえず貴族が務まった。古代での知識の重大さが分かるというものだ。そして素手で人を殴り殺せない者は。

間違いなく小人だ。

論語 孟子 孟子 お笑い芸人
その君子という言葉にもったいを付け、教養人とか人格者とか、面倒くさい語義をなすりつけたのは、孔子没後約一世紀のちの孟子である。孟子は希代の世間師で、当時ほぼ滅びていた儒家に目を付け、自分の商材として売り出した。売り出し先は戦国の諸侯たちである。

つまり世は戦国である。平民は徴兵されるのが当たり前になっていた。それと同時に君子もコモディティ化されて、すでにあこがれるべき身分ではなくなっていた。秦の商鞅による爵の制度とはそういうことである。だがそれでは、世間師として孟子は困った。売れないからだ。

だから売るために、君子という言葉にもったいを付けた。骨董屋にだまされて、くだらない土のかけらに、千万の金を出す小金持ちがいるのと同じ理屈である。だから君子のみならず、論語のあちこちを書き換え、でっち上げをねじ込んで、まるで違うものにした。

こうして孔子の儒学は儒教になった。イエスの教えがパウロによってキリスト教になったのとよく似ている。こんにち、君子という言葉が分かりにくくなったのは、孟子が買い手によってコロコロと意味を変えたからである。売れればいいのであって、内容などどうでも良かった。

まさに土くれと同じ扱いだった。現代の論語読者が、いかがわしい世間師の思惑に乗る必要はまるで無い。論語の言葉のうち、本物は”貴族”または孔子による呼びかけ”諸君”と読み替え、ニセモノは”教養人・人格者”など、適当にありがたそうな人格と読み替えればいいのである。

何せ元が口先のデタラメなのだ。真面目に取り合ってどうなろうか。

https://hayaron.kyukyodo.work/kaisetu/kunsi.html

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