本日の改訂から

論語の本章は、仮に史実でなかったとしても、論語を読もうとする現代人にとって、必須の警告を与えている。本章は、小人と君子の違いをうるさく言うことで、自らの立場を高めようとした、漢代の儒者官僚の作文である。言うまでも無く、儒者は自分を「君子」だと思っていた。

それも論語時代の意味ではなく、「君子」=”教養があって高潔な人格”という解釈にこだわった。だが孔子の生前、「君子」とは単に参政権のある貴族を言ったに過ぎず、人格だとかは関係が無い。身分も領主貴族とは限らず、単に城壁内に住んでいれば君子だった(→国野制)。

これはかつての反省を込めて言うのだが、こんにち論語を読もうとする人で、読んだ結果「自分は小人である」と反省する者を見たことが無い。誰もがそんなことは思いもよらず、漢代の高慢ちきな儒者同様、自分は高潔で教養ある君子だと勘違いしているのだ。

参政権があるという意味では君子なのだが、そういう読者に限って、「君子」=”高潔な教養人”、と信じて疑わない。はたから見れば、頭がおかしいというべきだ。そもそも論語など古典を読もうとする動機が不純な場合がほとんどで、つまりはまわりを見下すために読んでいる。

長い間、漢文業界とその周囲を見てきたが、古典を読んで人格が破壊された例は山ほど見てきたが、人格が陶冶された例をほとんど知らない。もともと高潔な人か、たまたまその素質があった人が、苦労の末古典を人格修養に役立てうる。だから論語は趣味に留めておけと言う。

これには客観的証拠がある。無慮二千年の間、中国政府は儒教経典を官僚採用に用いてきた。その結果選ばれたのは、ワイロ取りだけが能の人間のクズばかりで、僅かな例外があるに過ぎない。これほど膨大な時間と量のある実験は、人間界にそうそうあるものではない。

官值暑月。欲覔避暑之地。同僚紛義成曰。某山幽雅。或曰某寺清閒。一老人進曰。搃不如此。公㕔上最涼也。官問何故。答曰此地有天無日頭。(『笑府』巻一・避暑)

夏が来た。官僚が集まって避暑の相談をする。ある官僚が言った。「某山は静かでよい。」別の官僚が言った。「某寺はすがすがしくてよい。」下働きの老人が進み出て言った。「そのどの場所より、このお役所ほど涼しい所はございません。」なぜだね、と一同が聞くと、「ここにも空はありますが、お天道様が照りません。」

官僚どもがこぞって、役所で真っ暗な悪事ばかりにふけったのをからかっているのである。

そもそも、よい人間になりたくて聖賢の言葉を聞かねばならないようでは、その人はもう終わっているかも知れない。誰でも知っていることだ、誰かに、生き物に、非生物に対してよいことをする人が、よい人なのだ、なぜに二千年も前の古証文を、取り出して読む必要がある?

論語は暇つぶしに読むべきだ。決して、孔子の権威を身につけようとしてはならない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/rijin/082.html

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