本日の改訂から

はるかな後世、新井白石がシドッチに、神などおらんと明確に言えたのも、儒学者ならではのことである。白石が依った理気論もまた、宋学がでっち上げた黒魔術ではあったが、開祖の孔子の合理性は、なお宋学を経た江戸時代の日本儒教の中にも宿っていた。

さてここで考えておきたいのは、孔子の回りくどい言い方についてである。「神いまさざればなり」と言わず、なぜ「祭りて祭らざるがごとければなり」と言ったのか。神などいない、と思っていたなら、素直にそれを言えば良かろうに、そのまわりを取り囲むように言った。

これは、言ってしまえば当時の人々から、袋だたきに遭ったからだろう。原文を読めないので受け売りだが、ロジャー・ベーコンもデカルトもニュートンも、極めて回りくどい書き方をしているという。やはり無神論と取られては、袋だたきどころか火あぶりに遭ったからだ。

現代でも、はっきりと「神などいない」と言い切るリチャード・ドーキンスは、危険視されて主要な科学賞から排除されている。ソ連政府はソ連軍とKGBの脅威を背後に無神論を言い、潰れてしまった。現代ですら無神論を言うのは難しい。2,500年前の孔子ならなおさらである。

さらに言えば、孔子の立場は無神論ではなく、神の有無を論じないことだった。ゆえに「怪力乱神」を語らないのであり(論語述而篇20)、大事の前の潔斎は慎重に行った(論語述而篇12)。無神論者にも落雷はあるように、自然の猛威は孔子もまた、大いに認めた現象だった。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/052.html

論語の本章は、孔子の身分秩序観を示すためにでっち上げられた一節。孔子は成り上がった後に、既存勢力である門閥卿大夫の勢力を削ごうとし、そのために国公の後ろ盾を必要としたのであって、国公が実権を持つ周初の身分秩序を復活させようとしたのではない。

理想の国公として斉の桓公を挙げたのも、宰相管仲に全てを委ねきったからであり、それゆえ自分で政治いじりをした晋の文公を、「小ずるい」と小ばかにした(論語憲問篇16)。亡命先の衛でも同じで、狙ったのはまず国公の後ろ盾であり、だから卿大夫とつるまなかっただけ。

論語の本章も雍也篇も、前章までの孔子の宗教観と矛盾するように見えてそうでない。孔子は無神論者と言うより、神を論じない立場だった。祭壇に神が降りてくるとは思っていなかったが、天が雷や日照りや洪水を起こすこと、誰の目にも明らかだったからだ。

それを神の作用だとは孔子は言わなかったが、人事を超越した何かが天界にあると思っていただろう。加えて巫女の子として生まれたからには、世間の人間がどれほど神に怯えやすいか知っていたはずであり、抜け目のない王孫賈を黙らせるにも有効だと分かって言ったのだろう。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/053.html

論語の本章は恐らく、孔子没後に諸国の宰相を兼任した子貢が、羊のいけにえを止めさせた記録があった所に、漢代の儒者が孔子の苦言をつけ加えて、子貢を貶めたものだろう。孔子在世中に子貢が仕官した記録は無く、国家行事である告朔を、子貢がいじくれるはずもない。

対して儒者の注釈は、まるで「儒者ホイホイ」のように、いつも通り本章を徹底的に礼教的・道徳的に捉えており、それをコピペして、あたかも自分の意見のように言う吉川本はなんとも間抜けで、一層ホイホイの度を増している。

なぜかと言えば、下記古注の白文に怖じ気づいて読まず、ダイジェストの新注と『大漢和辞典』のコピペに毛の生えた程度の事を書いてお茶を濁したからだ。この程度の白文を怖がっているようでは、金輪際漢文は読めないと断言してよろしい。

古注『論語義疏』

子貢欲至其禮 云子貢欲去告朔之餼羊者告朔者人君每月旦於廟告此月朔之至也禮天子每月旦居於明堂告其時帝布政讀月令之書畢又還太廟吉於大祖諸侯無明堂但告於太廟並用牲天子用牛諸侯用羊于時魯家昏亂自文公而不復告朔以至子貢之時也時君雖不告朔而其國之舊官猶進告朔之羊子貢見告朔之禮久廢而空有其羊故使除去其羊也餼者腥羊也腥牲曰餼云子曰賜也汝愛其羊我愛其禮者孔子不許子貢去羊也言子貢欲去羊之意政言既不告朔徒進羊為費故云愛羊也而我不欲去羊者君雖不告朔而後人見有告朔之羊猶識舊有告朔之禮今既已不告若又去羊則後人無後知有告朔之禮者是告朔禮都亡我今猶欲使人見羊知其有禮故云我愛其禮也 註鄭𤣥曰至羊也 云牲生曰餼者鄭注詩云牛羊豕為牲繫養者曰牢熟曰饔腥曰餼生曰牽而鄭今云牲生曰餼者當腥與生是通名也然必是腥也何以知然者猶生養則子貢何以愛乎政是殺而腥送故賜愛之也云禮人君云云者告朔之祭周禮謂為朝享也鄭注論語云諸侯用羊天子用牛與侃案魯用天子禮告朔應用牛而今用羊者天子告朔時帝事大故用牛魯不告帝故依諸侯用羊也云魯自之公始不視朔者文公是僖公之子也起文公為始而不視告於朔也始文經宣成襄昭定至哀公時子貢當於定末及哀時也然謂月旦為朔者朔者蘇也生也言前月已死此月復生也

※帝:あきらむ。

本文、「子貢欲去告朔之餼羊」。注釈、鄭玄「生きたままいけにえにするのを餼という。礼の定めでは、君主は祖先祭殿で毎月月初めを宣言する事になっており、その際に祭礼を行い、これを朝享と言った。魯では文公の代からこの祭礼に国公が出なくなった。子貢はその礼儀が廃れたのを見て、羊の犠牲を止めようとしたのだ。」

本文、「子曰賜也汝愛其羊我愛其禮」。注釈。苞氏「虚礼だろうと羊を供えるから、古式の由来が分かるのであって、羊を廃止すれば、古式そのものが滅びてしまう。」

付け足し。子貢は礼法を極めようとした。

「子貢欲去告朔之餼羊」とある。告朔とは、君主が毎月の始めに祖先祭殿で”今日がついたちである”と宣言することで、礼法では周王は毎月はじめに明堂(祭礼殿)に出向き、ついたちを宣言し、施政方針を発表し、その月の政令を読み上げ、終えると祖先祭殿に入り、開祖についたちを言上した。諸侯には明堂が無いから、代わりに祖先祭殿で似たようなことをやった。いけにえを捧げたのも同様で、周王は牛を供え、諸侯は羊を供えた。

この時魯の国公家は混乱しており、文公の時代からこの儀式を止めてしまった。子貢の時代になっても、当時の国公はこの儀式をしなかったが、担当部署は残っていて羊をいけにえにしていた。子貢は羊が有名無実になったのを見て、いけにえを止めさせたのである。「餼」というのは新鮮な羊肉のことで、新鮮な供え物を餼と言う。

「子曰賜也汝愛其羊我愛其禮」とある。孔子は子貢が羊のいけにえを止めようとしたのを許さなかったのである。子貢が止めようとした理由は、朝廷がついたちの儀式を行わないのに、羊だけいけにえにするのはもったいないと思ったからである。だから「愛羊」と言った。

それに対して、孔子自らは羊を止めるのを願わなかったのは、国公が儀式を止めてしまっても、いけにえの羊を供えることで、のちの時代の人も昔の儀式を知るからだ。今はすでに儀式は廃れ、この上羊まで止めてしまったら、のちの時代の人は二度とこの儀式を知ることが無く、ついには儀式そのものが廃れることになる。孔子は今でも、人々に羊を見せるのが望ましいと思った。儀式を知るよすがになるからだ。だから孔子は「我愛其禮也」と言った。

注釈。鄭玄「羊をきわめたのだ。生きたまま供えるのを餼という。」

付け足し。鄭注詩にこうある。「牛・羊・豚はいけにえにする。肥え太らせてからいけにえにするのを牢と言い、煮物にして供えるのをヨウと言い、生肉で供えるのを餼と言い、生きたまま供えるのを牽という」と。鄭玄の注で「生きたまま供えるのを餼という」とあるのは、腥と生の音が似ているから間違ったのであり、これは絶対に生肉の間違いである。どうしてそれが分かるかと言えば、生きたまま供えて殺さないなら、子貢がどうして惜しんだりしよう。殺して肉にして供えるから、子貢はもったいないと言い出したのだ。

注釈。鄭玄「礼法によると、君主は毎月祖先祭殿でついたちの儀式を執り行う。その際に祭礼があり、これを朝享という。」

付け足し。告朔の祭は、『周礼』では朝享と言う。鄭玄が注を付けた論語に言う。「諸侯は羊を用い、天子は牛を用いる。」わたし皇侃が思うに、魯は天子の格式で儀式を行い、牛を用いたであろう。それが今や羊になったのは、天子が告朔を行うから暦が確定するのであり、事は重大だから牛を用いた。ところが魯は暦を確定しないので、諸侯の格式に戻って羊を用いるようになったのだ。

注釈。鄭玄「魯は文公の代からついたちの儀式を止めてしまった。子貢はその儀礼が廃れたのを見て、羊のいけにえを止めさせようとした。」

付け足し。文公とは僖公の子である。文公の時に、ついたちの儀式に国公が出ないようになった。文公から宣・成・襄・昭・定公と時代が下って哀公に至った。子貢が本章で廃止を言い出したのは定公の時代で、まだ哀公の代になっていなかった。

月の初めを朔と言うのは、朔は蘇ることであり、生きることだからだ。つまり前の月が死に終わって、新しい月がまた生まれたのだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/057.html

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