本日の改訂から

孔子が弟子に、文化芸術、礼法、ひたむきさ、正直を説いたのはもちろんだろうが、それだけでは論語の時代の貴族になれない。素手で人を殺せるようなえげつない暴力もまた、貴族に必須の教養だったからだ。そして忠誠という概念は、論語の時代の中国語にはない。

個人が具体的な個人に対して、真心を捧げる事は人間である以上当然知られていたが、国のような仮想共同体に対する「忠誠」が出土文献として中国に現れるのは、諸侯国の戦争が激化し、負ければ国が取り潰され、それゆえ領民に軍国主義をすり込まざるを得なくなった、戦国末期まで時代が下る。

役人の意識も国に仕えているという意識は無く、代々相続された家職に対する熱意や、主君に対する個人的誠意があり得るだけだった。政変のたびに執権のみならず国公まで殺されるのがざらだった春秋時代、斉の晏嬰が平家老から執権まで上り詰めたのは、世間のそうした常識に反して、主君でなく国に仕える、と公言したからだ。

その発言を司馬遷は「忠」と記したが、上記考古学的所見から、おそらく晏嬰は「中」、つまりお中の心=まごころとして言ったはず。晏嬰の信念は時代を大きく先取りするものだったが、ことばは語義が世間に共有されないとたちどころに消えてしまう。「忠」も同様である。

晏嬰は後世「忠」と解釈されるようなことを語ったかも知れないが、聞き手は誰もそう思わなかった。だから主君に殉じる者は出ても、国に殉じる者は珍しかっただろう。秦の穆公に殉じた家臣が大勢出た結果、一時秦の国勢が衰えたのは、そうした春秋の世を象徴している。

穆公は孔子より一世紀前の人物で、当時は戦に勝っても相手の国を滅ぼす例が少なかったから、事例にはなりにくいかも知れない。国の取り潰しが起きるようになったのはまさに孔子在世中のことであり、れっきとした周の同族である曹国は、殷の末裔宋国に滅ぼされた。

論語 春秋諸国と諸子百家
その際、国に殉じた者は出なかった陳国も滅んだが同様だった。「忠」はやはり戦国時代の産物である。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/jutuji/171.html



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