本日の改訂から

𠙵/𠙵(サイ・3画)

論語 器 口 サイ 金文
亞古父己卣・殷代末期

初出は甲骨文。カールグレン上古音はkʰu(上)。後漢の『説文解字』以来、「口」(コウ、くち)の古形と解する。Wikipedia「サイ (漢字学)」も参照。
口 説文解字
四部叢刊初編『説文解字』繫伝一・口部頭

白川静博士はこれを「サイ」と音読し、訓読は”のりと”であるらしい。『字通』口条に「卜文・金文にみえる口を含む字形のうち、口耳の口と解すべきものはほとんどなく、おおむね祝禱・盟誓を収める器の形である𠙵(さい)に従う。すなわち祝告に関する字とみてよい。文字は祝告の最もさかんに行われた時期に成立し、その儀礼の必要によって成立したものである。」という。

すなわち白川漢字学の一大概念で、その学説の光源の一つだが、当初から批判があった。加藤常賢は「極めて程度が低い」と罵倒し、ネット上に見られる批判にも、なるほどと頷ける論がある(→漢字の起源(白川静氏を買わない理由))。

誰のどんな名論卓説も、無批判に受け入れるのは宗教と変わらず、それは知性の放棄に他ならない。白川漢字学の批判的(≠罵倒的・=改良的)継承と発展を願ってやまない。

https://hayaron.kyukyodo.work/gosyaku/sa.html#𠙵

いはく、君子くんしあまねくしてくらべず、小人せうじんくらべてあまねからず。

諸君が目指す貴族とは、自分で自分を鍛え、あらゆる事柄に自信が持てる。だから他人と自分を比べない。だが庶民は鍛えないから自信が無く、いつも自分と他人を比べて、ひがんだり威張ったりする。


論語 周 甲骨文 論語 周 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では”行き届いた”の意。『大漢和辞典』の第一義も”いきとどく”。

従来のような解釈は、”行き届く”から「転じて、すべての人と欠け目なくまじわっている。また、そのさま」(『学研漢和大字典』)という。しかしその典拠はいずれも論語の本章である上に、本来の語義からは遠ざかる。その匂いの元はやはり、儒者のデタラメだった。

子曰君子周而不比註孔安國曰忠信為周阿黨為比也

「子曰君子周而不比」
注釈。孔安国「忠実で信義のあることを周と言い、互いにゴマをする集まりを比という。」(『論語義疏』)

周,普遍也。比,偏黨也。皆與人親厚之意,但周公而比私耳。君子小人所為不同,如陰陽晝夜,每每相反。然究其所以分,則在公私之際,毫釐之差耳。故聖人於周比、和同、驕泰之屬,常對舉而互言之,欲學者察乎兩閒,而審其取舍之幾也。

周とはあまねく行き渡るという事だ。比とは利益集団に偏るということだ。どちらも人と親しむことだが、ただし周は公平で比は私利私欲である違いがある。君子と小人ではすることが違う。陰陽の気の動きや昼夜のようなもので、ことごとく相反する。だがそれを分ける基準を求めると、公平か私欲かの、ほんの僅かな違いでしかない。だから聖人は二つを取りあげて、その対比を和同、驕泰のような対語で例え、いつもこの対比を語った。儒学を学ぼうとする者は、この二つの違いをよく観察して、僅かな違いを明らかにして、自分の行いとして取る取らないを決めるのだ。(『論語集注』)

要するに「比」を馬鹿者の集まりと解したのは古注からで、新注では「周」もまたつるむことだとされた。しかしいつも通り、儒者の言い分には何の根拠も無く、ただの個人的感想である。さっさと捨て去るべきだろう。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/isei/030.html



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