本日の改訂から

論語の本章について、面倒くさいゆえにとんでもなく難しい清代の科挙を、何と第三位で合格した劉逢禄が、次のような「考証」を書いていると、『論語集釋』が引いている。

論語述何
本章は魯の昭公が斉国に亡命した年のことに違いない。『春秋左氏伝』昭公二十五年の経文に、「(秋七月)最初のかのとの日に雨乞いし、最後のかのと日にまた雨乞いした」とあり、伝に、「”また雨乞いした”とあるのは、雨乞いではない。昭公が兵を集めて季氏の粛清を図ったのだ」とある。樊遅は昭公が起こした争乱の理由を知ろうとして、遠回しに訊ねたので、孔子はその質問を誉めたのである。

そもそも君臣の道は、先に君主が自分を正すべきで、それなら自然と臣下も正しくなる。ところが昭公は民に嫌われ、失政が続いていた。これではどうして、急に臣下の季孫家を粛清できようか?

昭公の家臣である子家駒は言った。「諸侯が周王の権威を侵し、家老が諸侯の権威を侵している。」それに対し昭公は、「ワシのどこが、周王陛下の権威を侵している?」これこそ、他人の悪事は目に入っても、自分の悪事は入っていない証拠だ。昭公は「一時の怒りに我を忘れ」て、我が身は亡命するハメになって、斉国でも晋国でも厄介者扱いされ、祖先の名誉を汚した。「惑」の最たるものと言っていい。

孔子先生はこの時、昭公の後を追って斉に行こうとし、樊遅はそれに従った。だからわざわざ雨乞い台の下の出来事を記したのだが、聖人賢者というものは、このように国政の退廃を哀しむあまり、あえて質問の言葉に、遠回しのまま答えるものなのだ。(『論語述何』)

全部デタラメである。樊遅は『史記』によれば孔子より36年少、『孔子家語』によれば46年少で、昭公二十五年(BC517)と言えば孔子ですらまだ35歳で、樊遅は生まれてすらいない。一時学界に流行った清朝考証学なるものが、いかにいい加減かご理解頂けるだろうか?

劉逢禄は秀才としてちやほやされ、合格と同時に翰林院(国立研究所)に配属され、のちに礼部郎中(文部事務次官)にまで出世し、科挙の試験官も務めた。wikiに「常州学派の中心となった。…清末の思想と情勢に大きな影響を与えた」とある。それがこのていたらく。

要するに権力や権威を背景に、それを持つ者が勝手なことを言いふらしたのが清朝考証学であり、反論可能性を全く排除してかかるから、合理でもなければ科学でもない。猿山のボスの遠吠えに過ぎない。もちろん例外はあるが、自分で調べもしないで担ぎ回るとバカを見る。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/ganen/299.html

論語の傾向として、その章でしか用いられない漢字があれば、だいたい偽作を疑っていいのだが、本章もその例。「舉直錯諸枉」との言い廻しは、論語為政篇19から切り取ってきたのは明らかで、「富哉言」も前章の「善哉問」のパクリだろう。儒者の創作力の貧困を示している。

儒者は『詩経』が孔子の撰述であるという権威性から、作るに規則の多いポエム書きには熱を上げたが、物語の創作はからきしダメで、似たようなことしか書く能がない。その上「物語など下らん人間が読み書きするものだ」といって馬鹿にした。以下は『封神演義』の例。

封神演義
この本は間違いなく、『西遊記』や『水滸伝』と共に、妖怪退治物語を伝える歴史小話で、矛盾に満ちている。読んだ所で中華の盛衰が分かる本ではなく、眠気を払う役にしか立たない。孔子様の広大な教えが、論じることが出来ないほどの規模であることを思えば、こんな下らない本の真偽を論じても、仕方が無いのである。(『封神演義』序文)

これが儒者=中国の行政但当者から、想像力を奪う一因となったから、それが亡国をもたらしたことを思うと、ラノベ軽視の罪は軽くない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/ganen/300.html



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