本日の改訂から

論語の本章は上記の検証の通り、後世の創作を疑うしか無いのだが、論語の時代に存在しないのは、ただ一字だけであることもあり、史実なのでは無いかと思わせる。詳しくは「辱」の語釈を参照して頂きたいが、この語は音を借りた仮借であり、もとは別字の可能性がある。

宋末から元の時代を生きた陳天祥は、儒者にしては面白いことを本章について書き残している。

善其說以道之語意不明不知如何是善其說道

「善其説以道之」と書いてあるが、何のことやらさっぱり分からない。いったいどうすれば、説教の言葉がよくなると言うのだ。(『四書辨疑』巻六)

陳天祥について訳者はよく知らないが、生きた時代については思う所がある。世界唯一の文明だとうぬぼれ切っていた中国人が、これほど自信を失った時代は空前で、そして今のところ絶後である。アヘン戦争以降の西洋文明に対してさえ、中体西用と言い張っていたのに。

「奴らが優れているのは所詮道具だけだ。人間の根本である精神は、やはり我らの方が優れているのだ。」そう言い放って、軍艦の建造・維持費を欲張り婆さん・西太后の趣味に浪費、いざ戦争となって主砲のタマが2発しか無いお粗末となり、結局下関で屈辱的な講和を結んだ。

これがきっかけで清帝国は崩壊するが、周知の通り清は満洲人の征服王朝、他に有名なのが陳天祥の生きた元の時代で、中国はモンゴル帝国の一部だった。実は中国史上、異民族の征服王朝は珍しくなく、世界帝国の栄華を誇った隋唐帝国も、鮮卑人の王朝である。論語 歴代王朝と孔子

つまり秦によって帝政が始まって以降、中国史の半分近くは征服王朝だったのだが、その中でもモンゴルは特別だった。鮮卑人や満洲人が、中国文明に対ししおらしい生徒の立場に立ったのに対し、ハナから馬鹿にして学ばず、科挙すら初めは行わなかった。

教科書的にはその理由を、中国征服以前にイスラム文明を知っていたからだ、と説明される。その通りではあるが、元は中国文明や儒教や論語に、ちょっと信じがたいおとしめ方をした。儒者は九儒十カイと言って、”乞食よりはましな連中”とさげすまれたとされる。

一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猎、八民、九儒、十丐。

鄭思肖
一に高級官僚、二に下役人、三に坊主、四に道士、五に医者、六に職人、七に猟師、八に庶民、九に儒者、十に乞食。

実はこの言葉、モンゴル人が言い放ったのではなく、滅ぼされた側の南宋の詩人、鄭思肖が『心詩』に記したのが初出だとされる。南宋が滅亡したとき38歳だった鄭思肖は、あるいは儒学の地位喪失を歎いて記したのかも知れないが、原文が参照できずなんとも言えない。

鄭思肖は科挙の中間試験を突破して、国立大学の学生だったうちにモンゴル軍の侵攻を迎えたのだが、抗戦派だったと言われ、宋滅亡後は仙人のような生活を送ったと言うから、察するに「儒者が情けないから、こんな有様になってしまったのだ」と歎いたのだろうか。

ともあれモンゴル人は、政権が危なくなるまで徹底的に、中国文明を無視し続けた。それまで儒者が馬鹿にしていた物語や小説の類(論語顔淵篇22付記参照)が「元曲」として花開くのはこの時代で、理由は食い詰めた儒者が仕方なく、戯曲の台本を書き始めたからだ。

映画監督志望の若者や女優志望の娘が、運に恵まれずAV業界に身を投じるのに似ている。それほど中国人にとって、モンゴル支配は苛烈だった。もちろん民衆はしぶとく生き続けたが、少しでもインテリを気取る者は、みな一様に茫然自失し、奴隷根性を根付かせることになった。

日本帝国の敗戦と似ている。上記「中」と「忠」の違いが、前者は誰が何と言おうと、であるのに対し、後者が私はどう思おうと、であるように、何がよいのか正しいかを、自分で決めようともしなくなったのを、奴隷根性と言う。これが現代中国人にも、根深く見え隠れする。

中国人にいわゆる大人タイジンはめったに居ない。その淵源が、九儒十丐にあると思う。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/ganen/301.html

時代を遡って前漢の劉向は、まるで法政大学の校歌のようなことを書いている。

賢師良友在其側,詩書禮樂陳於前,棄而為不善者,鮮矣。義士不欺心,仁人不害生;謀泄則無功,計不設則事不成;賢士不事所非,不非所事;愚者行間而益固,鄙人飾詐而益野;聲無細而不聞,行無隱而不明;至神無不化也,至賢無不移也。上不信,下不忠,上下不和,雖安必危。求以其道則無不得,為以其時則無不成。

劉向
偉い先生と性根のいい友達が側にいて、学ぶべき儒教の経典が目の前に並んでいる。ここまで環境が整っていれば、勉強に見向きもしない者はまれだ。正義の人は人をだまさず、愛の人は生き物をいじめない。

計画が漏れたら成功せず、計画が不十分でも成功しない。賢者は悪いことをしない。仕事に励むのを厭わない。愚人は暇を持て余してますます馬鹿になり、田舎者は人をだましてますます下卑てくる。音は隠そうとも聞こえるし、行いは隠しきることは出来ない。

偉い人に学べば性根がよくなるし、賢い人に学べば欠点は消える。権力者がウソばかり付けば、しもじもは言うことを聞かない。こんなままでは、無事に見えても安全とは言えない。この世の原則を追い求めれば、分からないなどということはない。いつかきっと分かる日が来る。(『説苑』談叢12)

こんなしおらしいことを書いた劉向だが、当人は結構うさんくさい人物で、王族に生まれたことから前漢中興の祖・宣帝に仕えたが、怪しいクスリ作りに熱を上げたので、現実主義者の宣帝は即座にクビにした。のちゆるされて官途に戻ったが、性根が治ったと言えるかどうか。

劉向
『説苑』のこの章がいつ頃書かれたかは分からないが、晩年は不遇で隠居同然だったと言うから、少しはものが見えたかも知れないが、環境が整っても一向に学ばない者の方が多い、という事実を無視して、お説教を垂れている。やはりお坊ちゃん育ちは生涯治らなかったようだ。

さて本章が論語に書き込まれたのは、定州竹簡論語にあることから、前漢の前半より前だと見ていいが、孟子や戦国儒者のしわざでは無いだろう。孟子は曽子がどんな人物だったか、神格化される前の実情を知っていた形跡があるからだ(→孔門十哲の謎)。

たぶん董仲舒あたりが、適当に作文してくっつけたのではないか。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/ganen/302.html

無倦→無卷

論語の本章では”途中で止めるな”。「無」は古くは「毋」だったと陸徳明の『釋文』は書いている。意味は全く変わらない。ただし「無」は甲骨文から存在するが、「毋」は戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「無」を参照。

倦→卷について、「倦」の初出は戦国時代、「卷」の初出は殷代末期。論語の本章が史実とするなら、「卷」と考えていいだろう。詳細は論語語釈「倦」論語語釈「巻」を参照。

後世の儒者によって、下掲の通り子路は飽きっぽい性格だと記された。それが史実かどうかは分からない。恐らくそんなことは全然なかったに違いない。飽きっぽい男が、やり手の殿様・衛の霊公でさえ手を焼いた蒲邑の統治を、やすやすとやってのけられるわけがない。

通曰子張子路問政皆告以無倦者子張堂堂子路行行皆易鋭於始而怠於終故皆以此告之子張少誠心故又加之以忠

子張 子路
諸本を参照して曰く、子張と子路は政治を孔子に問うて、どちらも「飽きるな」と説教された(論語顔淵篇14・本章)。子張は堂々としており(論語子張篇16)、子路はいかつい男だった(論語先進篇12)。二人とも初めの勢いは凄いが、すぐに気が抜けて怠け出す。だから孔子は「飽きるな」と戒めた。ただバリエーションの違いと言えば、子張は不真面目な男だったので、付け足して「まじめにやれ」と説教された。(元・胡炳文『四書通論語』巻七)

子張を堂々と言ったのは、根暗で陰険で弟子でも儒者でも無かった曽子のやっかんだ評語。子路をいかついと言った章は、後世の偽作が確定している。やっかみや偽作を証拠に、「怠ける」「不真面目」、こういう言いたい放題のことを言われるとは気の毒だ。


子路はこうして、反抗的な住民がわだかまる蒲邑(『史記』孔子世家)を手懐けたわけだが、亡命中の孔子が結局衛国に腰を落ち着けると、一番弟子の子路がその領主に取り立てられた。邑の領主を卿と呼び、国公に次ぐ高位(→参照)だが、厄介事を押し付けられたわけでもある。

それを見事にやってのけた。飽きっぽい男とは決して言えない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/303.html

上記の検証にかかわらず、論語の本章は漢帝国の儒者による偽作の疑いがある。同じ冉雍仲弓を相手にした言葉で、論語雍也篇6に「犁牛之子、騂且角、雖欲勿用、山川其舍諸。」と、人材の浮き沈みをテーマに、「舎」の使い方まで同じの話があるからだ。

また論語の当時を記す史書は『春秋』だが、そのうち最も充実した『左伝』には、冉雍も仲弓も出てこない。『穀梁伝』『公羊伝』も同様。後世の成立になる『史記』も冉雍の仕官ばなしは全く記していない。子路が季氏の執事になったことは『左伝』が記すのに、何かが変だ。

ただ今は、疑問を提示するに留める。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/304.html



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