本日の改訂から

論語の本章の成立については、定州竹簡論語に存在すること、論語の時代に存在しない言葉を使っていることから、原文は前漢帝国の儒者の手に成ると思われる。恐らく元ネタは論語子路篇9だろう。

先生が衛に行った。冉有が馬車の手綱を取っていた。
孔子「人が大勢いるなあ。」
冉有「そうですね。どうしてやります?」
孔子「財布を膨らませてやるとするかな。」
冉有「ふふ。膨らんだらどうしてやります?」
孔子「ものを教えてやるとするかな。」

これを元に帝国儒者は、いわゆる「正名論」を正当化するために本章をこしらえた。正名論とは本章にあるように、名前と意味内容を一致させることで、「羊頭狗肉」=高価で美味しいヒツジの看板を掲げて、安価な犬肉を売るような事はするな、という主張。元はそうだった。

が、儒者はもちろん自分らの儲けのために作り替えた。つまり儒者に都合のよい名前を付け、現実をそれに合わせようと社会に強要したのである。通貨や物品の固定相場制と同じで、出るサヤは莫大になるが、利益が出れば儒者が貰い、損失が出れば社会に押し付けた。

話の聞き手を子路にしたのも儒者の常套手段で、「頭の悪い」子路を「聖人の」孔子がやり込める、という筋書きは、論語ならずとも儒教関連の典籍でいくらでも見られる。子路の「バカ」を描くことで、「偉い」孔子を世間に説教する儒者自身になぞらえているのだ。

些細なことが重大事である、と人に強制する言い口もサディストならではで、もっともらしい前提にもっともらしい仮定を積み重ね、最後にはとんでもない結論を導くのは、まるで数理的な思考の出来ない馬鹿者のすることで、儒者の脳みその程度を露呈している。

同様の理屈で昭和の末年、「服装の乱れは心の乱れ」「髪の乱れは心の乱れ」とか言って、サド教師が男子生徒を押さえつけて丸刈りにしていた残忍の元ネタは、古代の中国儒者にある。教師の皮を被った犯罪者ども共々、ろくでもない連中だ。

論語は趣味に留めておけ、という訳者の主張を、ご理解頂けるだろうか。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/305.html

なお「孔子が古詩を編集して現伝の詩経を編纂した」という儒者のでっち上げに対し、清の梁章鉅は、自身も科挙を突破し、それも優等で合格した(合格と同時に翰林院=帝国高等研究所入りしている)れっきとした儒者にもかかわらず、次のように書いている。

『史記』孔子世家は、「古詩三千編から、孔子が重複を取り除いて、礼法のためになるもの三百五編を選んで『詩経』を編纂した」と言うが、これはでっち上げだ。古詩はたったの三百十一編あったに過ぎない。だから三百編暗記できたら、それで十分だと本章では言っているのだ。昔の人は竹簡に、手で文章を書いたから、三百編の詩集だけでも恐ろしく場所を取るし面倒くさいと言ってよい。後世の人間が紙に文字をぱんぱんと印刷し、ページをいくらペラペラめくった所で、大した読書と言えないのとは違うのだ。(『論語旁證』巻十三・誦詩三百章)

梁章鉅は政府高官としても出世し、それも世渡ではなく実務が評価されたかららしい。文官として一省の順撫(知爾)を務めたり、武官として西洋列強との防戦にも当たった。訳者は清朝考証学をこき下ろしてきたが、清儒のみながみな、バカでないことはもちろんである。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/307.html

上記の検証にかかわらず、論語の本章は孔子の発言とは思えない。後半の「其身不正、雖令不従」は誰にでも同意できるが、前半の「其身正、不令而行」には首をかしげざるを得ないからだ。こういうおとぎ話を好んだのは、孔子よりむしろ後世の儒者で、とりわけ漢代が怪しい。

「上これを好めば、下それに従う」という状況がありはするが、上にゴマをするれば利益があるからで、為政者に人格など求めはしないだろう。度を超した偽善が社会にはびこったのは後漢の次代だが、そうなるような種作りをせっせと、前漢の儒者がでっち上げたと思われる。

論語泰伯編18から続く、一連の鳥が鳴くような古代聖王への賛歌も、やはり前漢儒者の偽作だが、そのテーマはいずれも「聖王は何もしなかったが、世はよく治まった」であり、儒者官僚にとって、君主が何もしない方が、儒者は好き放題に収賄出来るので都合がいいのである。

なお「上これを好めば…」は、どうやら論語の本章が元ネタらしく、在野の清儒だった宦懋庸は、本章にこと寄せてこう書いている、と『論語集釋』に引く。

目下は目上に仕えるように見えて、実は言うことを全然聞きはしない。自分の都合で、したいようにしているだけだ。ただし目上の好みを嗅ぎ取って、もっと激しく好む振りをするゴマスリ者が、どこにも必ずいるものだ。『論語稽』

「下之事上也…。」ではじまるこの文は、儒教経典の一つ『孝経』を皮肉ったものだ。

子曰:「君子之事上也,進思盡忠,退思補過,將順其美,匡救其惡,故上下能相親也。《詩》云:『心乎愛矣,遐不謂矣,中心藏之,何日忘之。』」

孔子先生が言った。「君子が目上に仕えるというのは、積極的に忠義を付くし、密かに目上の不足を補おうとする。目上のよい命令はその通りに従い、間違った命令には悪い結果にならないよう手助けする。その結果、上下が互いにむつみ合うのだ。

『詩経』に言う。

心から愛するなら、どうして言わずにおれよう。
心の内に仕舞っておくなら、どうして忘れる日が来よう。

(『孝経』事君)

論語 曽子 ウスノロ
『孝経』は、孔子の弟子でもない曽子を書き手に措定したことなど、儒教経典の中でも極めつきに愚劣な本だが、それだけに儒者にとって都合のよいことばかり書いてあり、連中が何を企んでいたかを知りたければ、まことによく分かる資料となるし、長くも無い。

しかもどうやら子供向けに書かれたようで、用いた漢字も易しいし、ひねくれた修辞も使っていない。その割には故事成句の元ネタとなっており、漢文を読めるようになりたい人には、腕試しの教材として悪くない。子供をクルクルパーにして孝行を仕向けるビラだけに、当然だ。

西洋の似たようなのに、貧困層に暴動を起こすよう仕向けたマルクスの『賃金・価格および利潤』があるが、理屈が難解なだけでなく、言い廻しも回りくどい。全く働かず子を何人も餓死させ奥さんの財産を食い潰し友人からたかって回って愛人をこしらえ続けた男にふさわしい。

アジビラとして書いて置きながら、要するに人のことなどどうでもいいのだ。この点儒者は冷血動物という意味ではマルクスと同じだが、書いたビラが読まれて、読者がちゃんとクルクルパーになってくれないと商売が成り立たないので、そのあたりは工夫したわけである。

『孝経』由来の故事成語として一番有名なのは、冒頭の章のこれだろうか。

身體髮膚,受之父母,不敢毀傷,孝之始也。

身体髮膚シンンタイハップは、之を父母に受く。敢えて毀傷せ不るは、孝之始り也。

自分の体は髪や肌に至るまで、父母からの授かり物だ。だからわざわざ傷付けるようなことをしないのが、孝行の始まりである。(『孝経』開宗明義)

これでは君子として、戦場働きが出来ない役立たずになるから、無論孔子の教説ではない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/308.html

論語の本章は、このままでは何のことかさっぱり分からない。儒者も困ったらしく、歴代いろいろなことを書き付けてきた。古くは古注では、単に血筋のことのみ取り挙げた漢代の注釈に書き足して、両国ともに政治が乱れていたのが似ていたとする。

子曰魯衛之政兄弟註苞氏曰魯周公之封衛康叔之封也周公康叔旣為兄弟康叔睦於周公其國之政亦如兄弟也疏子曰魯衛之政兄弟 魯是周公之封衛是康叔之封周公康叔是兄弟當周公初時則二國風化政亦俱能治化如兄弟至周末二國風化俱惡亦如兄弟故衛瓘曰言治亂略同也 註苞氏曰至弟也 睦親也言康叔親於周公故風政得和好也本文「子曰魯衛之政兄弟」。
注釈。包咸「魯は周公が与えられた領地で、衛は康叔が与えられた領地である。周公と康叔はもちろん兄弟である。そして康叔は周公に懐いていた。だから両国の政治も兄弟なのである。」付け足し。先生は魯と衛の政治が兄弟だといった。 魯は周公の領地、衛は康叔の領地。周公と康叔は兄弟である。はじめ周公は二国とも説教してクルクルパーにし、住民に言うことを聞かせた。政治も同様に行ったこと、あたかも兄弟のようである。周の世も末になって、洗脳から冷めた二国の住民どもが悪たれになったが、この点も兄弟のようである。だから衛瓘が言った。「よく治まったのと乱れたのがほぼ同じだった。」

注釈。包咸「至は弟である(?この部分意味不明)。睦は親しむことである。康叔が周公に親しんだので、政治や風習がよろしくなった。」(『論語集解義疏』)

時代が下り、詩人として有名な北宋の蘇東坡(蘇軾)は、『論語解』四庫全書版で次のように述べている。

魯衛之先固兄弟也而方春秋之時一國之政陵夷亦無以異也故聖人歎息焉魯と衛の開祖はもともと兄弟だった。春秋時代の当時、両国共に政治が混乱している点で違いが無かった。だから聖人孔子は歎いたのである。(『論語解』子路篇・四庫全書版)

ところが理由は不明ながら、『論語集釋』に引く蘇東坡の言い分は違っている。

是時魯哀公七年、衛出公五年也。衛之政、父不父、子不子、魯之政、君不君、臣不臣。卒之哀公孫邾而死於越、出公奔宋而死於越、其不相遠如此。この時は魯の哀公七年で、衛の出公五年である。衛の政治は、霊公と息子の蒯聵カイカイが親子らしくなく、魯の政治は、国公と門閥家老家が君臣らしくなかった。そしてとうとう、哀公は隣国のチュへ逃げ出したのち、結局南方の越で世を去り、出公は宋に逃げ出したのち、やはり越で世を去った。互いの似ていること、この通りである。(『論語集釋』引「蘇軾論語解」曰)

衛の霊公は年老いてから後妻の南子を迎え、南子の実子でない太子・蒯聵はいろいろと居づらくなり、ついに南子暗殺を謀って失敗し、晋へ亡命した。そこで晋の権臣だった趙簡子の庇護を承け、魯から亡命した陽虎とともに秘密工作をし、霊公没後にあとを継いだ出公を追い出して国公の座に就いた。

こうした事情をつなぎ合わせ、新注では次のように言う。

魯,周公之後。衛,康叔之後。本兄弟之國,而是時衰亂,政亦相似,故孔子歎之。魯は、周公の末裔である。衛は康叔の末裔である。もともと兄弟の国だったが、この時衰退して混乱し、政治も似通っていた。だから孔子が歎いた。(『論語集注』)

訳者の見解としては、まず論語の本章は、上掲の通り也の字の用法で疑わしい所はあるが、まず孔子の肉声だと思う。儒者が本章を偽作して、何か得があるとも思えないし、「魯衛兄弟」という言い廻しは、他の典籍にも見られるからだ。

魯人或惡吳起曰:「起之為人,猜忍人也。其少時,家累千金,游仕不遂,遂破其家,鄉黨笑之,吳起殺其謗己者三十餘人,而東出衛郭門。與其母訣,齧臂而盟曰:『起不為卿相,不復入衛。』遂事曾子。居頃之,其母死,起終不歸。曾子薄之,而與起絕。起乃之魯,學兵法以事魯君。魯君疑之,起殺妻以求將。夫魯小國,而有戰勝之名,則諸侯圖魯矣。且魯衛兄弟之國也,而君用起,則是棄衛。」魯君疑之,謝吳起。

魯のある者が、(魯に将軍として仕えていた)呉起を魯公に批判して言った。「呉起の性格は疑り深くて残忍です。若い頃実家に財産があったのを、各地をぶらつく閒に使い果たしました。近所の者が笑うと、呉起は笑った者三十数人を殺しました。故郷の衛を東門から出るとき、母に別れを告げるにあたり、腕に歯形を付けながら誓いました。「外国で宰相か将軍になれるまで、決して衛国には戻らない。」

そして曽子に弟子入りしましたが、母が死んだのに帰省もしなかったので、曽子も追い出してしまいました。そして魯へやってきて、兵法を学んで殿に仕えたのです。こたびの斉との戦で殿が、呉起の妻は斉の出だからと疑うと、妻を殺して将軍の地位を求めました。

魯国は小さく、それなのに斉に勝ったと世間で言われては、諸侯はよってたかって、魯国を潰しにかかるでしょう。それに魯と衛は兄弟の国です。衛人でありながら、衛を見捨てた呉起を重用するのは、衛との友好を損なうものですぞ。」

魯公はそう聞いてなるほどと思い、呉起を解任した。(『史記』呉起伝7)

晉與魯衛,兄弟也,

(晋の将軍、郤克が言った。)「我が晋と魯・衛は、兄弟である。」(『春秋左氏伝』成公二年)

後者はまあ、ただの政治的リップサービスだろうが、「魯衛兄弟」は後の世まで歌われた。

大馮君,小馮君,兄弟繼踵相因循,聰明賢知惠吏民,政如魯衛德化鈞,周公、康叔猶二君。

(名知事の馮兄弟を住人が讃えて)「兄君も、若君も、兄弟どちらもしきたりを変えず、聡明にして下々を慈しみ、政治は魯と衛の如く人徳を及ぼし、まるで周公さまと康叔さまご兄弟の再来だ」(『漢書』馮奉世伝)

ここからは単なる想像だが、この言葉、孔子が衛の霊公をたらし込むときに言った言葉ではないか。もしそうとするなら、ポンと霊公が現代換算で111億円の捨て扶持を与えたり、乗っ取りまで計った孔子を許し、再度衛国滞在を認めたのは、孔子のおべっかの威力かも知れない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/309.html

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