本日の改訂から

論語の本章は、「んなワケねえだろ」と子供でも分かるようなウソを孔子が言わされているが、こういう偽善の章は、まずニセモノだと思って間違いない。「朕オモウニワガコーソコーソー」と同様、人々に思考停止を強いて、儒者らの意のままに操ろうとする洗脳である。

本章に対する、儒者の感想文の一つを紹介しよう。宋儒・鄭汝諧の『論語意原』から。

古有此語所以申言之葢省意也周自平王東遷諸侯力爭殆無虛月民之困於傷殘殺戮者二百餘年矣有王者作能朝諸侯而一天下僅可已其亂至於勝殘去殺雖使善人為之非百年相繼之乆必不能致此所以歎當世之習亂而痛斯民未有反古之日也昔からこの言葉はあったのだろうが、おそらく元を一部を切り取って言ったと思われる。西周が滅び、周の平王が都を東に移して東周時代になってから、諸侯は互いに戦争ばかりで、民草は傷害や殺害に苦しみ続けて二百年以上が過ぎた。

だがもし本当の王者が出てきたら、諸侯を従え天下を統一し、速やかに戦乱を終わらせただろう。しかし「勝殘去殺」と言っても、その能も無いただの善人が出てきただけでは、平和な世が百年以上続きでもしない限り、無理だったに違いない。

だから本章の言葉は、当時の戦乱を歎いた言葉で、かつてのような平和な日々を送れなくなった、民草を憐れんだ言葉なのだ。(『論語意原』巻三100)

筆者の鄭汝諧は科挙を通りそこそこ出世した儒者官僚で、北宋滅亡の混乱期に生まれたが、成人した時には南宋が安定しており、結構幸せな生涯を送ったらしい。この部分を読む限り、宋儒独特のオカルトにも毒されていないようだ。

もう一つ、明儒・王訥諫の感想文も記そう。原文に当たれなかったので、『論語集釋』に引く部分のみ孫引きして記す。

子欲善而民善、縱不能旋至立效、亦何至作百年迂疏之談。蓋此是古語、如魯兩生所云「禮樂百年而後可興」之類。周自文武開基、成康之時、乃致刑措。漢高帝平海内、至文景之丗、乃漏網於呑舟之魚、吏治烝烝。不至於奸、蓋去殺若斯之難也。

孔子先生は善を求め、とりわけ民の善を求めた。たとえすぐさま民を善人へと躾けられないにしても、なんで百年間とか、雲を掴むような話をしたのか。

この言葉は当時のことわざで、『史記』叔孫通伝にある、魯の儒者が言った、「礼楽は百年掛けないと盛んにならない」のたぐいと同じである。(それほど難しいことなのだ。)

周は文王武王が開き、二代成王・三代康王の時代まで、死刑を行わなかった。漢の高祖が天下を平定し、五代文帝・六代景帝の時代まで、かなりの大事でも大目に見たので、おかげで統治は滞りなく行われた。

悪党がはびこらず、死刑を廃止するというのは、これほど珍しいことなのだ。(『四書翼註』)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/313.html

論語の本章は、文字は全て春秋時代に遡れるにもかかわらず、読むそばから孟子による偽作と分かる話で、裏返すと孟子の教説がよほど諸侯にウケなかったこと、ウケないほど絵空事だったことを反映している。孔子に語らせて権威づけないと、誰も聞く耳を持たなかったのだ。

その証拠に、論語で「王者」という言葉が用いられたのは本章だけなのに対し、『孟子』では手を変え品を変えして、孟子がくどくどと王者について説教している。熟語だろうと単漢字だろうと、論語では多少に見られない字があったら、まず偽作を疑っていい。

『孟子』の劈頭、「孟子先生、こんな遠くへわざわざおいで下さったのは、何かそれがしに得な話でも持って来て下さったのですかな」と問う魏の恵王に対し、「何とガメツいことをおっしゃる。王がそんなだから、政治も戦争もうまくいかないのです」と孟子は答えている。

驚く恵王に、孟子は仁義を説き、王道を説いたのだが、老練な恵王は孟子に居心地のよい宿は与えたが、教説に聞く耳を持たなかった。すでに諸侯国の食い殺し合いに突入していた戦国時代に、「道徳で統一」とか、孟子の言う絵空事に付き合っていられなかったのである。

しかるに歴代の儒者は、古注に「孔安國曰三十年曰世如有受命王者必三十年仁政乃成也」=”孔安国曰く、三十年を「世」と言い、天命を承けた王者が世に出ても、必ず三十年が過ぎてから人生がやっと実現するのである”と記されてから、論語の本章を全く疑わずに過ごした。だから『論語集釋』を参照すると、例によってうんざりするほどの議論が積み重ねられているにもかかわらず、今日的価値のある話はほとんど無い。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/314.html

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