本日の改訂から

論語の本章は、論語の中でも指折りに人の心に響くものを持っていながら、同時に中華文明の抜きがたい宿痾を示してもいる。中華文明の特徴の一つは、他文化圏では信じがたいほどの人間不信で、それゆえにどこまでも身内びいきで、公共とか公平と言った概念が無い。

薄いのではなく無い。論語の本章を偽作した前漢の儒者も同じで、社会の公正を保つために、誰もが服すべき法を忌み嫌い、身内に甘いことがむしろ善事とされた。一例が後漢時代の偽善的な「善政」である。なお日本の現行法も、家族をかくまった場合は罪に問われないらしい。

確かに法と刑罰でギリギリ社会を縛り上げるのは暴政に他ならないが、あまりに公正を欠いた社会は万人の万人に対する殺し合いになってしまう。中国社会とはそういうもので、だからこそ血縁で結びついた宗族を作り、一人が出世すると会ったことも無い親戚がタカリに来る。

その結果実入りのよい官職が、権力者の一族によってたちまち独占されるのは普遍的現象で、見知らぬ親戚を追い返しでもしようものなら、あることないことを言いふらされて、権力の座から引きずり下ろされる。権力者には常に政敵が居るからであり、それは皇帝も変わらない。

総統も主席も変わらない。政敵は乞食同然の言いふらし屋だろうと、それを大げさに仕立てて敵を引きずり下ろすのである。他方で身より頼りの無い者は、そういう者同士が集まってパン(秘密結社)を作る。いわゆるチンパンホンパンのたぐいだが、中国である以上必要なインフラだ。

天安門
権力にも宗族にも縁が無い者は、幇に頼らないと、よってたかっていじめ殺されるからで、「世界人民大団結万歳」とマルクスに煽られる二千年以上前から、中国人はつるむことの安全性を熟知してだた。かつて猛威を振るった四人組も、中国語での呼称は四人スウレンパンである。

かように中国社会の苛烈さは、論語の時代も現在も、日本人の想像を超える。幇が通常、趣味の会や仲良しグループと同時に犯罪組織を兼ねている事実を、言われてすぐ納得できるだろうか。中国社会から権力の私物化と幇を一掃するのは、日本でヤクザを根絶するより難しい。

だから団結の力を知らない中国支配下の少数民族は、現在ホロコーストの憂き目を見ているのだ。安易に中国を持ち上げる「中国通」は、中途半端にしか中国を知らないから暢気なことが言えるので、そういう連中にだまされないためには、日本人も中国を知る必要があろう。

論語や孔子と幇も、無関係ではあり得ない。そもそも孔門そのものが幇であり、春秋時代の身分秩序を破壊する犯罪組織を兼ねていた。だから公冶長は収監されたのだ。そして孔子をシングルマザーの孤児から宰相へと押し上げたのも、新興氏族という幇だった(→孔門十哲の謎)。

春秋時代の姓が、血縁を前提とする組織だったのに対し、氏が必ずしも血縁を必要としなかったのはそれゆえだ。つまり宗族だけでは社会的インフラとして不十分で、疑似宗族としての氏が姓を補完した。身寄り無き小悪党が集まった山賊は、それゆえ氏を名乗ったのである。

だから顔氏に属する孔子の母と幼い孔子は、無法地帯の上トラ・ヒョウ・サイ・ゾウのうろつく中原を放浪できたのだし、成人後の孔子とその一門も、同じくサファリパークな旅が可能だった。事跡の伝わらない顔回が、なぜ神聖視されるかの元ネタは、この幇の力にある。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/320.html

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