論語の本章を併せ、樊遅と孔子の問答は次の通り。
章 樊遅問(1) 孔子曰(1) 樊遅問(2) 孔子曰(2) 真偽 論語為政篇5 (孝) 以礼 ○ 論語雍也篇22 知 務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣。 仁 仁者先難而後獲、可謂仁矣。 ○ 論語顔淵篇21 崇德など 略 × 論語顔淵篇22 仁 愛人 知 知人 × 論語子路篇4 稼など 吾不如老農 × 本章 仁 居處恭、執事敬、與人忠 ○ うち半分は偽作だが、本章と同様に仁を問うた本物の論語雍也篇では、”働いてから給料を貰え”と言っている。つまり孔子存命中の「仁」の定義、”貴族らしさ”であるとわかる。本章もまた、”物腰柔らか、仕事は丁寧、人に誠実”と言っており、”貴族らしさ”の答えと断じ得る。
以上から、「也」の使用にかかわらず、おそらく本章は史実だろう。
これに対して顔淵篇での答え、”人を愛せ”は、孔子より一世紀後の孟子が提唱した「仁義」=”情け深いこと”への答えと見なし得る。本章へ落下傘降下した読者諸賢むけに重複を恐れずに書けば、現伝の儒教で言う仁とは孟子の言った仁義であり、孔子の言った仁ではない。
詳細は論語における仁を参照。なお武内本に言う「論語衛霊公篇6とそっくり、仁は行の間違いではないか」という説は、仁の定義を仁義であると信じて疑わないから起こることで、戦前の論語業界を風靡した武内博士の説は、もはやこんにちでは通用しない。
同様の疑問は宋代のばかたれ儒者・楊時の、『楊亀山文集』にもあるようだ。話の順序として、まずその衛霊公篇の章を掲げる。
子張問行。子曰、「言忠信、行篤敬、雖蠻貊之邦行矣。言不忠信、行不篤敬、雖州里行乎哉。立則見其參於前也、在輿則見其倚於衡也、夫然後行。」子張書諸紳。そして以下が楊時の問答。
胡徳輝「この章は、子張が行を問うた衛霊公篇のとそっくりですよね。だから仁は行の間違いじゃないかという人がいます。先生はどう思われますか?」
楊時「儒者はひたすら仁の実践に励めばよいのじゃ。行いの原則は他ならぬ仁ではないか。言葉が似ているからと言って、疑うに足りない。」(『亀山集』巻十四23)
例によって、儒者は説教と論証を勘違いしているのだが、楊時は新注にたびたび登場する重要人物で、北宋滅亡の際には逃亡したくせに、南宋が成立したとたん山から下りてきて官職にありつき、しかも和平派の悪口を言いふらして人気を取った卑劣漢でもある。
それはさておき、衛霊公篇の真偽判定は該当ページで行うとして、「蛮族の国に行っても通用する」という言い廻しを、孔子は好んで行ったことになる。若い武人の樊遅を孔子は愛したが、それゆえにちょっとおどけて答えたように訳者には思える。
なお論語からは漏れているが、樊遅は孔子と次のような問答も交わしている。
樊遲問於孔子曰:「鮑牽事齊君,執政不撓,可謂忠矣,而君刖之。其為至闇乎?」孔子曰:「古之士者,國有道則盡忠以輔之,無道則退身以避之。今鮑莊子食於淫亂之朝,不量主之明暗,以受大刑,是智之不如葵,葵猶能衛其足。」
樊遅「むかし斉の鮑牽は殿様に仕えて、政治をまじめに行いましたから、真心のある人だと思います。でも殿様は足切りの刑に処しました。ならば鮑牽は、あまりに頭が悪いと言うべきでしょうか。」
孔子「むかしの貴族は、国にまともな政道があれば仕えて助け、無ければ引き籠もって身を守ったものだ。鮑牽どのはとんでもない暴君に仕えたのに、バカ殿だと見抜けなかったから、足切りの目に遭った。真面目な人ではあるかも知れないが、ヒマワリほどの知恵も無かったんだな。ヒマワリならさっさとそっぽを向いて、足切りの目には遭わなかっただろうよ。」(『孔子家語』正論解22)
やはりどこか、おどけて答えている。孫ほど年齢が違うからには、さもありなん。
論語の本章は、むやみに長い他の章と同じく、後世の儒者による偽作。本章のみで使われている漢字があることも、偽作された論語の章が持つ、一つの特徴である。
『論語集釋』に引く清儒の作『趙佑温故録』によると、論語の本章がいわゆる郷挙里選の判断基準だったという。その理由を長々と書いているが、書き写すのもうんざりするほど長い上に、例によって清儒の妄想に違いないから、訳や詳細はご免被る。
ただし仮に事実とすると漢儒が論語の本章を偽作した理由も見えてくる。要するに自分らに都合のよい者を官僚に取り立てるよう仕向けたのだ。これに対して別伝では、孔子は子貢に対して次のような人物を「役人としてよろしい」と説いている。
子貢問於孔子曰:「今之人臣孰為賢?」子曰:「吾未識也。往者齊有鮑叔,鄭有子皮,則賢者矣。」子貢曰:「齊無管仲,鄭無子產。」子曰:「賜!汝徒知其一,未知其二也。汝聞用力為賢乎?進賢為賢乎?」子貢曰:「進賢賢哉!」子曰:「然。吾聞鮑叔達管仲,子皮達子產,未聞二子之達賢己之才者也。」
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子貢「今の役人で偉いと言えば誰ですかね?」孔子「知らん。昔は斉に鮑叔、鄭に子皮がいたがな。この人たちはまあ、偉いと言えるだろう。」
子貢「おや? 斉と言えば管仲、鄭といえば子産でしょうに。」
孔子「お前はまだものをよく知らんな。業績を残した人と、その人を見出した人と、どっちが偉い?」
子貢「そりゃまあ、見出した人でしょうね。」
孔子「そうだろ。鮑叔は管仲を見出し、子皮は子産を見出した。だが管仲や子産が、自分より偉い人間を見つけて推薦した、という話は聞いたことがないぞ。」(『孔子家語』賢君2)
いかにも孔子が言いそうなことで、公務員予備校の経営者として、孔子は弟子の仕官先探しに苦労しただろうから、推薦者を評価するのはもっともだ。論語にはまま見られる、本章のような回りくどい話や絵空事はたいてい偽作だが、それより別伝の方が孔子の姿に迫れもする。