本日の改訂から

切(セツ)→切 外字(ホウ)

論語の本章では”心のこもった言葉”。

切 外字
定州竹簡論語の「切 外字」は『大漢和辞典』にも記載が無く、「切」の異体字と解する以外に手立てがない。

ただし旁はおそらく「ホウ+心」で、「丰」は『学研漢和大字典』に「散乱した草」というが、これは別字「カイ」の語義。『字通』に「草木のさかんに茂るさま」と言い、「金文の字形は、禾の穂が高く伸びる形に作る」という。現代中国語では「豊」の簡体字として用いる

従って「切 外字」は、心豊かに言う言葉、心のこもった言葉と解せる。

音については、会意・形声ともに旁が優先するのが通常だから、「丰」または「心」いずれかと思われる。いずれであるかは、被修飾部より修飾部が優先されるのが通常だから、「ホウ」と思われる。

偲(シ)→䛭 外字(シン)

論語の本章では”真心の言葉”。

䛭 外字
定州竹簡論語の「䛭 外字」はunicodeでは旁が「幸」の字”言う・正しい”と統合されてしまっているが、本来は「辛」。『大漢和辞典』によると語義未詳で、『篇海類編』を引いて「音信」とある。

「辛」は『学研漢和大字典』では「鋭い刃物でぴりっと刺すこと」と言い、『字通』では「把手のある大きな直針の形。これを入墨の器として用いる」と言うが、「宰」の字のように、必ずしも入れ墨の針ばかりを意味せず、鋭い刃物一般と解せる。

「辛辣」とは”刺すような(厳しい批評)”を意味するが、患部を取り去り鍼療治を行うのもまた「辛」であり、「䛭 外字」は”うそいつわりや飾りのない、まことの言葉”と解せる。

怡(イ)→飴(イ)

論語の本章では”にこやか”。

「怡」の初出は前漢の篆書。論語の時代に存在しないが、同音で部品の台に”よろこぶ”の語釈があり、初出は殷代末期の金文。『学研漢和大字典』によると「心+(音符)台」で、心を調整してかどを去り、なごやかにすること、という。詳細は論語語釈「怡」を参照。

飴 金文
「飴」(金文)

「飴」は「怡」の同音で、初出は西周早期の金文。ただし字体は「𩛛」。原義は穀物由来の水飴だが、国学大師によると、古くは貽に通じて”贈る”の意があったという。詳細は論語語釈「飴」を参照。


武内本には、「切切は勸競の貌、偲偲は又愢愢に作る、讓順の貌、怡怡は煕煕と同義、和協の貌」とあるが、勸競という語は大漢和にも載っていない。漢語網でも検索できない。ネットで検索すると以下が出る。

劉氏正義:「鄭注云,切切,勸競貌。勸競,即切責之意。鄭與馬同也。」

劉氏=清儒・劉宝楠の『論語正義』を、訳者はほとんど参照してこなかった。今回はやむなく真に受けて古注『論語義疏集解』を参照したが、鄭玄はこんな注を付けていない。しかしこれが正しいとすると、切責=”厳しく叱る”こと。「朋友切切偲偲」と本文にあるから、友人を厳しくとがめること。これは上記の「䛭 外字䛭 外字」と一致する。

今回に限っては、清儒の「考証」も当たっており、彼らが知るよしもなかった、定州竹簡論語というブツの裏付けがあることになる。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/330.html

論語の本章は、上記の通り文字史的に史実と断じていいのだが、加えて論語の時代性をよく反映した言葉でもある。孔子の若年期まで、春秋時代の戦争とは貴族が戦車に乗って戦うもので、庶民には関係なかった。大坂夏の陣で、庶民が弁当持参で見物したのに似ている。

庶民の曹ケイが国公に献策しようと村を出るとき、村人が言った。「戦争なんぞ肉を食べているお貴族様の仕事だ。何でまた余計なことを言いに行く?」(『春秋左氏伝』荘公十年)

論語 弩 戦車戦
ところが孔子の時代に(クロスボウ)が発明され、戦争のありようが変わってしまった。維持や使用に金や技術の要る戦車と違い、弩は素人でも当たるし貫徹力も強い。戦車の突撃を射すくめて止めることも出来た。従って庶民も兵士として有用となり、徴兵されるようになった。

魯の貴族、微虎は夜陰に乗じて呉王の宿所を襲撃しようとし、領民七百人を引き連れ、陣屋で三度高飛びさせて徴兵検査し、歩兵三百人を選んだが、その中にはまだ若い者もいた。(『春秋左氏伝』哀公八年)

明治の血税一揆と同じく、いきなり徴兵されるようになった庶民は面食らったに違いない。だが庶民もまた戦士となれば、それは庶民の政治的地位の向上を意味し、これが孔子が社会の底辺から宰相までのし上がる、社会的背景となった。孔子塾もその結果である。

同時に中国の政治に、劇場性が加わった。国家という架空の存在を庶民に理解させ、その存続のためなら命を投げ出すよう洗脳するためには、ウソとでたらめで固めたおとぎ話で、頭をクルクルパーにせねばならなかったからだ。孔子より一世紀後の孟子の教説はその一例である。

孟子 論語 忠 金文
論語の時代には存在しなかった、「忠」の字が出来るのも戦国時代になってからだ。かつて中国の貴族は領地領民や政治的特権によって、自国防衛の動機があった。しかし数多い徴集兵にそんな特権を与えるわけにはいかず、諸子百家は競ってクルクルパーにする技術を開発した。

だがその始まりである孔子はそんな技術など思いもせず、ただ懇々と諭して納得して貰う事を選んだのだろう。それゆえに論語の本章の言葉があるのであり、孔子は特権無き犠牲を庶民に納得させることの不可能を知っていたから、「七年かかる」と言ったわけ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/331.html

論語の本章は前章をタネにして、おそらくは孟子によって書き足されたもの。

孟子
孟子は孔子没後一世紀後に現れた希代の世間師で、孔子の教説を作り替えて、諸侯に売り出す儒教に仕立てた。この点戦国時代らしいインチキがつきまとうが、他の諸子百家と違い、民の保護を前面に押し出した。それゆえ本章のような、民を無残に扱うことには反対した。

孟子對曰:「殺人以梃與刃,有以異乎?」曰:「無以異也。」「以刃與政,有以異乎?」
曰:「無以異也。」曰:「庖有肥肉,廐有肥馬,民有飢色,野有餓莩,此率獸而食人也。獸相食,且人惡之。為民父母,行政不免於率獸而食人。惡在其為民父母也?仲尼曰:『始作俑者,其無後乎!』為其象人而用之也。如之何其使斯民飢而死也?」孟子 梁恵王
孟子「人を殺すのに棒で殴るのと、刀で斬るのとで、違いはありますか?」
梁恵王「違いは無い。」

孟子「この宮殿の厨房にはたっぷりとした肉があり、馬屋には肥えた馬が飼われています。ですが一歩外に出ると、民は飢えて青い顔、道ばたには行き倒れが転がっています。つまり王殿下は、家畜をけしかけて人を喰らわせているのです。

けものが食い合えば、誰もが目を背けるのに、民の父母を名乗る王殿下は、けものに人を喰らわせて平気でいるのです。そんな父母がどこにいますか。

かつて孔子は言いました。”貴人の葬儀の道連れとして、初めて人形を作った奴は情けを知らない。子孫が絶えても当然だ”と。人そっくりに作ったからで、人が人を生き埋めにするとは、おぞましいとはお思いになりませんか。

ならば民を飢え死にさせるのは、もっとむごいと言うべきでしょう。」(『孟子』梁恵王上4)

有名な「五十歩百歩」の故事成句も、もとは『孟子』から出たもので、「民が言うことを聞かん」と歎く梁(=魏)の恵王に、「徴兵した民が戦場から逃げ出し、五十歩逃げた者と百歩逃げた者で、どちらが臆病ですか?」と孟子が逆ねじを喰らわせたのが出典。

また孟子はこうも言っている。

爭地以戰,殺人盈野;爭城以戰,殺人盈城。此所謂率土地而食人肉,罪不容於死。故善戰者服上刑,連諸侯者次之,辟草萊、任土地者次之。

孟子
他国の土地が欲しいからと言って戦争を仕掛ける。すると平原のあちこちで人殺しが始まる。都市が欲しいからと言って戦争を仕掛ける。すると都市のあちこちで人殺しが始まる。これではまるで、土地に人を殺させているようなものではないか。

その罪は死に値する。だから戦上手は極悪と言うべきで、極刑に処してよい。諸侯を説き回って戦争を仕掛ける、蘇秦張儀のような奴は、それに準じる罰を与えてよい。それに近年「墾草令」を秦公に説いて、開墾と植民による軍備増強を唱える商鞅のような奴は、それに近い刑罰に処するがよい。(『孟子』離婁上14)

孔子と違った孟子のインチキ臭さは、おそらくは当人が全くの青びょうたんで、ケンカ一つ出来ないくせに、食うか食われるかの戦国諸侯に、生き残りの術を説いたことにある。だがこの平和主義は万人受けするし、なにより平和の否定は、誰にも許されるべきではない。

だから論語の本章を偽作までした孟子を、悪党と断じるのを、訳者はためらっている。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/siro/332.html

スポンサーリンク
スポンサーリンク



スポンサーリンク



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)

スポンサーリンク
スポンサーリンク