本日の改訂から

論語の本章は、おそらく後漢末期以降につけ加えられたもの。理由の一つは、定州竹簡論語に無いことであり、もう一つは、漢の高祖劉邦の「邦」の字を避諱せず使っていることから。後漢末から三国に至る社会崩壊の中で、原憲子思のような生き方が評価されたからだろう。
(→後漢というふざけた帝国)

以下、原憲子思を「原憲」と記すのは、孔子の孫・子思と区別するためであり、訳者が何らかの意を含んで原憲と呼び捨てにするわけではない。蛇足ながらいみ名=本名で呼ぶのは呼び捨てにあたり、あざ名で呼ぶのは敬称で呼ぶことになる。


孟子去齊,居休。公孫丑問曰:「仕而不受祿,古之道乎?」曰:「非也。於崇,吾得見王。退而有去志,不欲變,故不受也。繼而有師命,不可以請。久於齊,非我志也。」

孟子
孟子が斉の宣王の元を去り、国都臨淄から、いなかの休のまちに移住した。弟子の公孫丑が問うた。「仕えたのに給料を貰わないのは、昔からの作法ですか?」

孟子「いいや。崇のまちで初めて宣王に出会ったとき、すでに仕えるのは嫌だと思っていた。その心にもない事を顔に出したくなかったから、給料を貰わなかった。だがしばらく斉に居る内に、軍隊を任された。だから断り切れなくなったのだ。それでも長く斉に居たのは、私の望みではなかった。(『孟子』公孫丑下23)


陳子曰:「古之君子何如則仕?」
孟子曰:「所就三,所去三。迎之致敬以有禮,言將行其言也,則就之;禮貌未衰,言弗行也,則去之。其次,雖未行其言也,迎之致敬以有禮,則就之;禮貌衰,則去之。其下,朝不食,夕不食,飢餓不能出門戶。君聞之曰:『吾大者不能行其道,又不能從其言也,使飢餓於我土地,吾恥之。』周之,亦可受也,免死而已矣。」

孟子
陳子「昔の君子は、どんな時に仕官したのですか?」

孟子「仕官の条件は三つ、辞職の条件も三つだ。礼儀作法にかなったやり方で招かれ、「仰る通りに致します」と言われたら、仕えてよい。だがその約束を反故にされたら、待遇に変わりは無くても辞めるべきだ。

次に、特に約束が無くても、礼儀作法にかなったやり方で招かれたら、仕えてよい。この場合待遇が悪くなったら、辞めるべきだ。

最後に、朝晩の食うものに困り、腹が減って外にも出られない。その噂を君主が聞いて、「政治をそなたの言う通りには出来ぬし、そなたの献策も聞けないかも知れぬが、ワシの領地でそなたのような者が飢え死にしたとあっては、世間体が悪い。」と言って捨て扶持をくれるなら、仕えてもよい。飢え死にしては何にもならんからな。(『孟子』告子下34)

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