本日の改訂から

論語の本章の後世成立説に対して、『史記』弟子伝が本章と次章を共に「子思」=原憲の発言としているので、定州竹簡論語の本章部分が失われた可能性もあるが、逆に史記が後世書き換えられた可能性だってある。どちらが正しいとも言いかねるのが、中国の文献というものだ。


従って本章はそうした節を通す原憲の生き方を孔子が評価したと、後世の儒者が孔子に言わせたわけ。ただし、雍也篇に言う「原思」が、本章の「憲」と同一人物とするのは通説だが、史実である証拠は無い。さらに本章の言う「憲」の姓氏が、「原」であるという証拠も無い。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/333.html

本「論語詳解」のページタイトルに記した算用数字は、朱子に従った通し番号だが、論語の本章には質問者の主語がない。従って前章の続きと解して、質問者を原憲(→人物図鑑)だとするのが一般的だが、前章は偽作が確定している。つまり本章の質問者は、誰なのか分からない。

しかも原憲は、その姿がはっきりと史料に記されない。


原憲居魯,環堵之室,茨以蒿萊,蓬戶甕牖,桷桑而無樞,上漏下濕,匡坐而絃歌。子貢乘肥馬,衣輕裘,中紺而表素,軒不容巷,而往見之。原憲楮冠黎杖而應門,正冠則纓絕,振襟則肘見,納履則踵決。子貢曰:「嘻!先生何病也!」原憲仰而應之曰:「憲聞之:無財之謂貧,學而不能行之謂病。憲、貧也,非病也。若夫希世而行,比周而友,學以為人,教以為己,仁義之匿,車馬之飾,衣裘之麗,憲不忍為之也。」子貢逡巡,面有慚色,不辭而去。原憲乃徐步曳杖,歌商頌而反,聲淪於天地,如出金石。天子不得而臣也,諸侯不得而友也。故養身者忘家,養志者忘身,身且不愛,孰能忝之。《詩》曰:「我心匪石,不可轉也;我心匪席,不可卷也。」

論語 趙孟頫『甕牖図』国立故宮博物院蔵 原憲

趙孟頫『甕牖図』国立故宮博物院蔵

原憲が魯で住んだのは、一部屋だけに垣根を巡らせた小さな小屋で、いばらが茂り、よもぎを綴って戸の代わりにし、割れた大瓶の口を窓枠にし、桑の枝で屋根を架け、開き戸を設けなかった。雨漏りがし、大水では容赦なく雨が流れ込んだが、原憲は居住まいを正して琴を弾き、歌を歌った。

そんな原憲を子貢が訪ねた。肥えた馬に車を牽かせ、上等な毛皮のコートを着て、上着は真っ白な絹を羽織り、中着は紺屋に染めさせた上物の青い麻を着ていた。だが車が大きすぎて、原憲の住まう貧民街に入れず、やむなく歩いて会いに行った。

原憲は荒い紙の冠にヒシの枝の杖を突いて門まで出迎えた。冠は真っ直ぐにかぶっていたが、緒が切れており、粗末な着物に痩せたひじが見え、靴は踵が無くなっていた。

子貢「ああ、兄者は病気になってしまわれた。」

原憲はあごを上げて言った。「世間でこう言いますね。財産が無いのを貧乏と言い、学んでも実行できないのを病気という、と。私は貧乏ではありますが、病気ではありません。もし出世したいなら、あなた方学友の真似をしたでしょう。そもそも学問とは自己修養のためにあり、仁義をごまかし、立派な車に乗り、上等の着物を着るようなことは、私には耐えられません。」

子貢はうろたえて、恥ずかしさに顔が真っ赤になった。何も言うことが出来ず、そのまま帰ってしまった。原憲は杖を突いてゆるゆると歩き、詩経の商頌の歌を繰り返し歌った。その声はよく響き、鋳たての青銅のような輝きを思わせた。

ああ、天子には本当の臣下は居ない。諸侯に本当の友人は居ない。人は皆一人なのだ。だから我が身を大切にする者は家族を構いつけない。心を大切にする者は体を構いつけない。体ですら構いつけないようでないと、一体どうやって心を守るというのか?

詩に言う。「私の心は石ころではない。転がってたまるか。私の心は座布団ではない。丸められてたまるか」と。(『韓詩外伝』巻一9)

一説にはこの時子貢は衛国の宰相で、春秋の世に名の通った資産家だった。孔子一門の財政を支え続けたのは、他ならぬ子貢である。その子貢が素寒貧の原憲を訪ねたのは、懐かしさ故のことだろうが、中国語ではこういう腰の低い貴人の訪問を、「曲駕チーマー」”駕籠を曲げる”という。

この話をどう受け取るかは読み手次第だが、ここに現れた原憲を「立派だ」というのは偽善と言うべきで、金も地位もある学友がわざわざ訪ねてきたのに、嫌味を言って追い払うとは、相当に性格が悪いひねくれ者と解する方がまっとうのように思う。

『韓詩外伝』の成立は前漢初期で『史記』より早いが、文中に「仁義」とあることから、この伝説の成立は少なくとも戦国時代の孟子以降とわかる。ほぼ同じ話が『史記』にも『荘子』にもある。そして「原憲」と姓名が知られるのは、こうした戦国時代以降の伝説による。

あるいは原憲は、タン台滅明と同様に、後世の儒者が作り出した架空の人物なのかもしれない。通説での原憲は、前章と本章のほかに論語雍也篇5に見える「原思」のことだとされるが、孔子が執事に雇った原思と、原憲子思が同一人物であると言う証拠は、何一つ無い。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/334.html

『論語集釋』に引く各種の儒者の感想文は、論語の本章に関しては至って少ない。古注は「居」を”住まい”と解し、新注は”安楽”と解している。また「懷居」という表現は、上古の漢文として極めて珍しく、論語の本章を除くと後漢の『申鑒』のみとなる。

或問曰難行。曰:「若高祖聽戍卒不懷居,遷萬乘不俟終日;孝文帝不愛千里馬;慎夫人衣不曳地;光武手不持珠玉,可謂難矣。抑情絕欲,不如是,能成功業者鮮矣。人臣若金日磾,以子私謾而殺之;丙吉之不伐;蘇武之執節,可謂難矣。」

儒者の捏造
ある人が為しがたい行いを問うた。その答え。

「もし高祖陛下が、兵士が気負って家に帰りたがらないのに任せて戦を進めたら、あっという間に天下を平定しただろう。だがあえて兵士を一時帰郷させた。文帝陛下は千里の馬を献上されても喜ばず、だから愛妃の慎夫人ですら贅沢なぞろ長いスカートを履かなかった。光武帝陛下は宝石を喜ばなかった。これらは為しがたい行いと言える。

感情を抑えて欲望を断たなければ、このようにはできないから、功績を挙げ得た者は世に少ないのだ。

武帝陛下の寵臣だった金日磾は、手の付けられぬ悪党になった我が子を殺した。丙吉は宣帝陛下の擁立に大功があったが、それを誇らなかった。蘇武は匈奴に使いに出てしくじりかけ、その責任を取って自決しようとした。これらも為しがたい行いと言える。」(『申鑒』雑言上8)

編者の荀悦は、曹操の参謀として三国志に有名な荀彧の従兄だが、この一節以外誰も論語の本章を引用してあれこれ書かなかったのは奇跡に近い。本章の史実性は上記の通り疑えないし、定州竹簡論語にあることから、前漢宣帝期には存在したことは確実なのだが。

さて孔子は本章で言うように、弟子には仕官後の精励を求めたが、中には何もしないで治績を挙げた者もいる。子賤がそれで、面倒くさい住人が住まう単父ゼンホの代官として赴任したのだが、取り立てて何をするでもなく、チンチャカ琴を弾いていただけで、よく治まったという。

宓子賤治單父,彈鳴琴,身不下堂而單父治。巫馬期亦治單父,以星出,以星入,日夜不出,以身親之,而單父亦治。巫馬期問其故於宓子賤,宓子賤曰:「我之謂任人,子之謂任力;任力者固勞,任人者固佚。」

劉向
筆者・劉向

子賤が単父の代官になると、ひたすら琴を弾き、代官所の外にも出なかった。それなのにまちはよく治まった。そののち巫馬期も単父の代官になったが、夜明け前から夜遅くまで駆けずり回って、ようやくまちを無事に治めた。巫馬期が子賤に統治のコツを聞くと、こう答えた。

「私は人任せにし、君は自分だけで何とかしようとした。自力に頼れば、くたびれるに決まっている。人任せにしておけば、もともと手出しする必要が無い。」(『説苑』政理23)

これが史実かどうかは断じかねるが、面倒くさいまちだからこそ、地元の慣習につべこべ言わず従うことも、統治のコツだった可能性はある。おそらく孔子も結果を見て、子賤に文句は言えなかったに違いない。なおこの故事は、「掣肘」の語源にもなっている。

宓子賤治亶父,恐魯君之聽讒人,而令己不得行其術也。將辭而行,請近吏二人於魯君,與之俱至於亶父。邑吏皆朝,宓子賤令吏二人書。吏方將書,宓子賤從旁時掣搖其肘。吏書之不善,則宓子賤為之怒。吏甚患之,辭而請歸。宓子賤曰:「子之書甚不善,子勉歸矣。」二吏歸報於君,曰:「宓子不可為書。」君曰:「何故?」吏對曰:「宓子使臣書,而時掣搖臣之肘,書惡而有甚怒,吏皆笑宓子,此臣所以辭而去也。」魯君太息而歎曰:「宓子以此諫寡人之不肖也。寡人之亂子,而令宓子不得行其術,必數有之矣。微二人,寡人幾過。」遂發所愛,而令之亶父,告宓子曰:「自今以來,亶父非寡人之有也,子之有也。有便於亶父者,子決為之矣。五歲而言其要。」宓子敬諾,乃得行某術於亶父。

論語 子賤
子賤が単父の代官に任じられた。

子賤「やれやれ。どうせ殿様は私の悪口を耳にして、思い通りに腕を振るえなくしてしまう。」そこで一計を案じ、副官二人を付けてくれるよう魯公に願い出た。殿様が許したので、子賤は二人を連れて単父に赴任した。

地元役人が出迎えると、子賤は二人に命じて、彼らの名を一覧に書き記すよう命じた。二人が筆を執ると、子賤は二人の袖を横から掣肘=ちょいちょいと引っ張り、邪魔をした。その上書き上がった一覧を見て、「何だこの下手くそな字は」と怒った。呆れた二人が辞任を願うと、子賤は「ああ帰っていいよ」と追い払った。

はらわたが煮えくり返った二人は魯の都城に帰ると、魯公にあらましを報告した。「子賤どのが字を書かせてくれません。」「なぜじゃ?」「我らが字を書こうとすると、横から袖を引っ張り、書き上がった字を下手くそだと叱りました。地元役人はそれを見てゲラゲラ笑い、我らはあまりの辱めに、こうして帰ってきたのです。」

魯公はため息をついて言った。「それはきっと、子賤がワシを諌めているのだ。ワシが君たちを遣わして、子賤の腕を振るえないようにすることを、見通していたのじゃろう。もし君らがいなければ、ワシはきっと子賤の邪魔をしただろう。」

そこで信頼する家臣を遣わして、子賤にこう言わせた。「今から単父のまちは、ワシのものではなく、そなたのものと心得よ。統治に必要ならば、思い通りの布令を出してかまわない。五年間は任せるから、そのあとで治績を報告しに来なさい。」

子賤は魯公の命令を拝受して、思い通りの統治を行った。(『呂氏春秋』審應覽・具備2)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/335.html

スポンサーリンク
スポンサーリンク



スポンサーリンク



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)

スポンサーリンク
スポンサーリンク