本日の改訂から

ただし上記の通り、論語の本章は文字史的には孔子の発言を疑えないものの、後漢滅亡後につけ加えられた可能性が高く、後漢末から三国へと至る、信じがたいほどの政治と社会の無軌道ぶりを反映した、儒者の創作だと見るのが妥当(→後漢というふざけた帝国)。

そこで上記の通りの「危」の解釈が出てくるわけで、後漢末の用例は以下の通り。

二事:臣聞國之將興,至言數聞。內知己政,外見民情。是故先帝雖有聖明之資,而猶廣求得失。又因災異,援引幽隱,重賢良方正、敦樸有道之選,危言極諫不絕于朝。

蔡邕
二つ目には、私が聞いております所、国が発展するときには、偽りの無い言葉がしばしば上奏されます。それで内廷の政治を知り、天下万民の様子を知るのです。だから亡くなられた先の皇帝陛下は、神の如き洞察力をお持ちでありながら、さらに政治の長所短所についての意見をお求めになったのです。

災害があっても、隠れた賢者に意見を聞き、まじめな者を取り立て、ごまかしの無い政道の確立に努められましたから、激しい言葉や政治への不満が、朝廷で聞こえない日はなかったのです。(後漢・蔡邕『蔡中郎集』陳政要七事疏)

無論、前後の漢を通じてみれば、「危」を”ただす”と読む例が無いわけでは無い。

冉伯牛危言正行而遭惡疾,孔子曰:「命矣夫!斯人也而有斯疾也!」

漢書 班固
(論語雍也篇10を引用して)冉伯牛は言葉を正して行いを正したのに、疫病に取り憑かれた。孔子が言った。「これも運命なのか。まさか君のような人が、こんな病にかかるなんて。」(後漢・班固『白虎通徳論』・寿命2)

だがおそらく論語の本章の成立は、後漢帝国天下太平の時期を生きた班固とは違う。誰にもどうしようも無い政治状況だったからこそ、”危ない”言葉で政治を正すことが求められたのであり、単に言葉をお上品にすることが、末世に生きる人々の脳裏に上ったわけが無い。

そして後漢末から三国に掛けての動乱期、食糧難に疫病、さらに寒波が追い打ちをかけ、庶民ばかりでなく貴族さえも、ただ食べるだけでも困難な時期だったことを、証言している記事がある。

余宗族素多,向餘二百。建安紀年以來,猶未十稔,其死亡者,三分有二,傷寒十居其七。

趙仲景
私の一族はもとは大勢いて、二百人を過ぎていただろうか。だが漢末の建安年間(196-220)以降、十年と過ぎないうちに、一族の三分の二が死に絶えてしまった。その中で、寒さと栄養失調による死者は七割に上る。(『傷寒論』張仲景原序)

趙仲景は「孝廉」で取り立てられて地方長官を務めたが、「孝廉」とは地方貴族団の評判により、親孝行で・がめつくない、との評価を言う。地方豪族の一員でないと選ばれない称号であり、紛れもない貴族の一員と言ってよい。その一族の三分の二が、十年以内で死に絶えた。

「行いを激しく」せねば、食べ物にもありつけない地獄だったのだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/336.html

さて論語の本章の史実性については、上記の検証通り漢字の文字史的には疑い得ないのだが、漢の高祖劉邦の「邦」の字を置き換えず使っている。一般に中華王朝では、その王朝の皇帝とその祖先の本名は、憚って用いず別の字で置き換える。これを避諱という。

これは古典にも及び、漢代では論語の「邦」の字は「國」(国)に書き換えられた。ところが本章はそうでない上に、定州竹簡論語から漏れている。竹簡破損の結果である可能性はあるが、避諱を考慮に合わせると、本章が論語に加えられたのは後漢滅亡後と見てよい。

ただし偽作とまでは言えない。孔子や弟子の言葉を伝えた別伝は、かつては各種あって、そこから取られた話かもしれないからである。従って論語の本章に関しては、偽作とまでは言えないが、収録されたのは後漢滅亡後であり、論語としては新しい、と言えるに止まる。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/gakuji/010.html

史実の後半に、漢代の儒者が前半をでっち上げてくっつけた、車の修理で言う所の「ニコイチ」である。しかし実のところ、その可能性も薄い。

本章の成立は、おそらく後漢帝国滅亡後になる。理由は高祖劉邦の名を避諱していないこと、定州竹簡論語から漏れていることで、竹簡破損の結果である可能性は排除できないが、無い者は無いと判断して、論語の本章がまるごと偽作と考えた方が理屈が簡単になる。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kouyachou/093.html

春秋時代の貴族に勇気が不可欠な事情は、重複を恐れず記せば、当時の貴族は戦士を兼ねたからだ。孔子の壮年期、(クロスボウ)の出現によって平時の訓練無き庶民もまた国防を担えるようになると、この意義は薄れた。同時に仁が貴族らしさを意味することも忘れられた。

徳が物理的力を含む個人が持つ機能であることも忘れられた。それに伴って孔子の教説もほぼ滅びた。それを再興したのは孔子より一世紀後の孟子だが、再興し諸侯へ売りつけるために孔子の教説や概念を大幅に書き換えた。これが現伝の儒教の始まりである。

論語の本章に関しては、古注・新注を含めて、ほとんど儒者は書き付けていない。「仁者」とは何かをまるで知らないままだったので、孔子が何を言っているのか分からなかったのだろう。ただし長い中国史には戦乱の時代もあり、南北朝期に「仁」本来の意味が復活もした。

裴俠,字嵩和,河東解人也。…大統三年,領鄉兵從戰沙苑,先鋒陷陣。俠本名協,至是周文帝嘉其勇決,乃曰:「仁者必勇。」因命名俠焉。以功進爵為侯。

裴俠あざ名は嵩和、河東は解の出身である。…西魏の大統三年(358)、郷里の義勇兵を組織して沙苑の戦いに出陣し、先鋒を務めて敵陣を落とした。俠は本当の名を協と言ったが、のちに北宗の文帝がその勇気をたたえて、「仁者は必ず勇あり」といい、それにちなんで俠と名を改めたのである。戦功を重ねて、ついに侯爵まで出世した。(『北史』裴俠伝)

『北史』は唐の時代に編纂された、南北朝時代の北朝を扱った正史。唐帝国は北朝の系統を引き、隋帝国と共に北方の遊牧民だった鮮卑族の建てた国だった。日本で親しまれている唐詩に、戦陣を歌ったものが多いのはその武断的性格を物語り、鮮卑王朝の始まりは北魏である。

王翰「涼州詞」
©小学館

葡萄の美酒 夜光の杯
(ブドウの美酒、ガラスの杯)

飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催す
(飲もうとすると、誰かが琵琶を馬上で弾いている)

酔うて沙場に臥すも 君笑う莫れ
(酔い潰れてこの戦場に寝込んでも、どうか笑ってくれるな)

古来征戦 幾人か回る
(昔から遠い戦場へ戦いに出て、何人が無事に故郷へ帰っただろう)

北魏の軍事貴族が群雄割拠して、やがて隋へと統一されるのだが、隋唐帝国は中国史上最後の貴族社会だった。その貴族は南朝系統の、漢以来の名家でなければ、鮮卑人の軍人上がりである。その食うか食われるかの群雄割拠の時代、やはり仁=貴族らしさが復活した。

愔字遵彥,小名秦王。兒童時,口若不能言;而風度深敏,出入門閭,未嘗戲弄。六歲學史書,十一受《詩》、《易》,好《左氏春秋》。
…及韓陵之戰,愔每陣先登。朋僚咸共怪歎曰:「楊氏儒生,今遂為武士,仁者必勇,定非虛論。」

楊愔あざ名は遵彥、幼いときの名は秦王。子供の頃、口がきけないように思えるほど寡黙で、態度が大人びていた。家や郷里の門を出入りするにも、キャッキャとふざけることがなかった。六歳で史書を学び、十一歳で詩経・易経を学び、春秋左氏伝を好んで読んだ。

韓陵の戦い(532)が始まると、楊愔は常に先陣で戦ったが、戦友たちは不思議に思って言った。「楊氏は儒者だったのに、いまや武士となった。仁者に勇気があると論語に言うのは、ウソじゃ無かったんだな。」(『北史』楊愔伝)

ここから分かることは、北朝の軍事貴族には、仁者=孟子の提唱した仁義の人、つまり憐れみ深い儒者と理解していたのだが、戦乱の時代には儒者もまた軍人でもありうる例を、楊愔を見て思ったことになる。この楊という姓は鮮卑貴族の一員で、隋の帝室と同じである。

そして孔子は、仁・君子・勇本来の意味を、別伝で次のように語っている。

孔子曰:「行己有六本焉,然後為君子也。立身有義矣,而孝為本;喪紀有禮矣,而哀為本;戰陣有列矣,而勇為本;治政有理矣,而農為本;居國有道矣,而嗣為本;生財有時矣,而力為本。置本不固,無務農桑;親戚不悅,無務外交;事不終始,無務多業;記聞而言,無務多說;比近不安,無務求遠。是故反本脩迹,君子之道也。」

論語 孔子別像
自分を紀律づける道は六つだ。それが出来て、やっと貴族と言える。出世するには正義に従い、その根本は孝行だ。葬儀や追善には礼法に従い、その根本は心から悲しむことだ。戦陣では指揮系統に従い、その根本は勇気だ。政治は道理に従い、その根本は農業の保護だ。貴族団の一員に加わるには慣例に従い、その根本は後継者の育成だ。財産を稼ぐには時に従い、努力がその根本だ、根本をおろそかにして不安定になると、農業に励む者がいなくなる。親族の仲が悪くなると、外交に励む者がいなくなる。物事にしまりを付けないと、各々の仕事に励む者がいなくなる。聞いたことだけしか言わないなら、丁寧に説明する者がいなくなる。手近なところを手入れしないと、遠い先を心配する者がいなくなる。だから何事も根本を大事にして努めるのが、貴族に相応しい生き方なのだ。(『孔子家語』六本1)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/337.html

論語の本章は、定州竹簡論語に見えず、後漢が初出の漢字を使っていることから、上掲の通り後漢時代の偽作。ただし「南宮括字子容」と『史記』弟子伝に見えていることから、南宮括そのものの否定は出来ないように見えて、存外『史記』にも偽作が多いと思われる。

『論語』ですら、儒者はやりたい放題に偽作しているのだから、『史記』ならなおさら。なお本場中国では、『史記』は宋が滅亡した頃に一冊残らず焼けて焼いてしまい、現伝の『史記』はかろうじてその前に日本に伝わり、戦国武将の直江兼続が所蔵していた本の末裔。

なお南宮敬叔について、別伝には次のような記事がある。

南宮敬叔以富得罪於定公,犇衛。衛侯請復之,載其寶以朝。夫子聞之,曰:「若是其貨也,喪不若速貧之愈。」子游侍,曰:「敢問何謂如此?」孔子曰:「富而不好禮,殃也。敬叔以富喪矣,而又弗改。吾懼其將有後患也。」敬叔聞之,驟如孔氏,而後循禮施散焉。

南宮敬叔は贅沢を魯の定公にとがめられて、衛に亡命した。衛国公が気の毒に思い、帰国できるよう定公に口を利いてやると、敬叔は宝を積んだ車を牽いて定公に謁見し、献上した。

伝え聞いた孔子「これではただのワイロだ。地位を失ったら、さっさと全財産を手放すに限る。」
そばに居た子游「どうしてですか?」

孔子「財産があるのに貴族らしい礼法に親しまないと、災いが身に降りかかる。敬叔は財産を理由に地位を失った。それなのに態度を改めない。これではきっと、あとあと災難が降りかかるだろうな。」

伝え聞いた敬叔は孔子の下へ行き、教えを受けた後で礼法に従い、財産配りをして手放した。(『孔子家語』曲礼子貢問2または3)

この話の史実は判定しがたいが、南宮敬叔が孔子に弟子入りしたのはまだ若い頃で、孔子の洛邑留学に口添えし同行するなど、「礼を知らない」とは言いがたい。だが何かしらの史実は含んでいるのかも。

南宮縚之妻,孔子之兄女,喪其姑,夫子誨之髽,曰:「爾毋從從爾,毋扈扈爾。」蓋榛以為笄,長尺,而總八寸。

南宮トウの妻は、孔子の兄の娘だが、姑を亡くしたとき、先生が出掛けて、喪中の髪型を教えた。「派手にしたり、着飾ったりしちゃいけないよ。ハシバミの枝をかんざし代わりにし、長さは一尺、ふさの長さは八寸にしなさい。」(『孔子家語』曲礼子貢問18)

南宮縚は『大載礼記』では南容と同一人物のように記されている。南宮敬叔が孔子の兄の娘を娶ったというのは、家格に合わないから信じがたいが、南容≠南宮敬叔なら、この話は筋が通る。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/338.html



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