昨日の改訂から

論語の「君子・小人」という言葉は「仁」同様、広く誤訳された言葉の一つで、孔子生前ではあくまで、貴族と庶民を意味しているに過ぎない。だから孔子は君子と小人を区別はしても、差別はしなかった。していたら孔子塾に、三千人とも言われる小人が押し寄せるわけがない。

それが変化したのは、孔子の晩年になって戦のありようが変わり、貴族の操る戦車戦から、徴兵された庶民が(クロスボウ)を持たされ戦う歩兵戦へと移り変わったからだ。庶民もまた国防を担うとなれば、貴族は特権を社会に説明できなくなり、「君子」の存在意義が疑われた。

そこで孔子から一世紀後の孟子が、”教養ある人格者”という新しい意味を「君子」に与え、その新君子にふさわしいありようとして、孔子の「仁」を作り替えた「仁義」、すなわち情けや憐れみを提唱した。これが君子たちの不安によく答えたので、孟子はそこそこ儲かった。

だから孟子は新「君子」を語るのが精一杯で、「小人」をバカにはしていない。そして孟子が君子と小人を対比させた言葉は、以下のわずか5例に限られる。

滕定公薨。…孟子曰:「…上有好者,下必有甚焉者矣。『君子之德,風也;小人之德,草也。草尚之風必偃。』是在世子。」

孟子
滕国の定公が世を去った。…孟子が言った。「…上の者の好みは、下の者が真似をして程度が激しくなる。孔子先生も仰った、”君子の道徳は風で、小人の道徳は草である。風が吹けば草はなびく”と。お世継ぎもそう心得られよ。」(『孟子』滕文公上2)

孟子曰:「…其君子實玄黃于匪以迎其君子,其小人簞食壺漿以迎其小人,救民於水火之中,取其殘而已矣。」

孟子 お笑い芸人
孟子が言った。「(周の武王が東征の軍を起こすと)各地の君子は、各種の布を竹かごに入れて、東征軍の君子に差し出し、小人は粗末ながら食事を作って、東征軍の小人に差し出したのは、東征軍が民を水に溺れ火に焼かれるような苦しみから救い、悪の張本人である紂王を討伐しようとしたからだ。」(『孟子』滕文公下10)

「故曰,為高必因丘陵,為下必因川澤。為政不因先王之道,可謂智乎?是以惟仁者宜在高位。不仁而在高位,是播其惡於眾也。上無道揆也。下無法守也,朝不信道,工不信度,君子犯義,小人犯刑,國之所存者幸也。

孟子
(孟子)「だから言うのだ。丘は高いに決まっているし、川は低いに決まっている。先王の道に従った政治でないと、智とは言えないのだ。だから仁者だけが高位に上るべきで、不仁者が上ってはならない。上ったらみんなの迷惑だ。上の者は無軌道に暴政をやらかし、下の者は法を守らなくなる。政府は原則を顧みず、職人は物差しを疑い、君子は正義を踏み外し、小人は犯罪をしでかす。これで国が滅びなかったら、奇跡というものだ。」(『孟子』離婁上1)

孟子曰:「君子之澤五世而斬,小人之澤五世而斬。予未得為孔子徒也,予私淑諸人也。」

孟子
孟子「君子が後世に残す影響はせいぜい五世代、150年まで、小人も同じ。だから私は、一世紀前にみまかった孔子先生のお弟子とはまだ言いがたいが、孔門の偉い先生方を個人的に尊敬している。」(『孟子』離婁下50)

曰:「以皮冠。庶人以旃,士以旂,大夫以旌。以大夫之招招虞人,虞人死不敢往。以士之招招庶人,庶人豈敢往哉。況乎以不賢人之招招賢人乎?欲見賢人而不以其道,猶欲其入而閉之門也。夫義,路也;禮,門也。惟君子能由是路,出入是門也。《詩》云:『周道如砥,其直如矢;君子所履,小人所視。』」

孟子
孟子「(人の招き方には決まりがある。)皮の帽子をかぶって、庶民を招くなら赤旗を振り、士族を招くなら上下の龍を描いた赤旗を振り、家老階級を招くなら羽毛を吊した旗を振る。その規定を破って羽毛を振り回しても、下役人は死んでも来ようとしない。士族を招く旗を振っても、庶民がやって来るわけが無い。だから馬鹿者を招くやり方で、賢者がノコノコ来ると思うか? 賢者にふさわしい招き方をしないのは、閉ざされた門から入ろうとするのと同じだ。そもそも正義とは、原則のあるものだ。礼法とは、通るべき門のことだ。君子だけがその門を通って出入りする。詩に言うだろう、”周の政道は砥石のようだ、その真っ直ぐなさまは矢のようだ、君子が従い、小人は見つめる”と。」(『孟子』万章下16)

いずれも小人蔑視には至っていないことが、おわかり頂けると思う。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/339.html

だが「小人」も孔子の生前は、単に貴族に対する庶民を意味しただけで、”くだらない人間”という、差別の意味は持っていない。でなければ三千にも及ぶ「小人」が、孔子の弟子になりはしない。


ただし孟子については、付け足して言わねばならないことがある。それは君子の対語である小人について、差別や蔑視をしていないことだ(論語憲問篇7付記参照)。小人の差別を言い出したのは、戦国末期の荀子からで、しつこくバカにし始めたのは、漢代の帝国儒者からになる。

権力を手にするまでは、儒者も大人しくしていたが、手にしたとたん人を差別して、自分のつまらない自我を満足させるようになった。対して孔子にはそんな必要が無く、孟子は自分の教説を売り出すのに忙しかった。小人閑居して不善を為す(『大学』)、は漢代儒者の創作だ。

対して孔子はこう言っている。

揚人之惡,斯為小人。

論語 孔子 居直り
人の欠点をあげつらう奴、それを小人と言うのだ。(『孔子家語』弁政8)

https://hayaron.kyukyodo.work/kaisetu/kunsi.html

論語の本章に関して、『論語集釋』に引く『四書蒙引』には、こんなことが書いてある。

愛不但是父之愛子兄之愛弟士之愛友君之愛臣民師之愛子弟亦有如此者忠不但是臣之忠君子亦有盡忠於末處士亦有盡忠於反處凡為人謀亦有盡其忠處但不必貫忠愛而惆之也

蔡清
愛とは父親の愛だけでは無い。兄が弟を愛し、士族が友を愛し、主君が臣下を愛し、師匠が弟子を愛するのも、また愛のうちだ。忠は臣下の忠だけではない。子が父に尽くし、士族が友に尽くす、およそ人の為を思って忠を尽くすことがある。だから忠や愛を貫くやりかたは、一つだけではないのだ。(『四書蒙引』巻七8)

だがこれは、朱子学に頭がイカれた明儒・蔡清の思い込みというもので、孔子はこのような、何らかの反応を期待する「愛」を説かない。それは「愛」の字が、春秋時代に無いことにも起因するが、孔子の言う愛は、取り返しが付かない者への、惜しみない「哀」である。

孔子適齊,中路聞哭者之聲,其音甚哀。孔子謂其僕曰:「此哭哀則哀矣,然非喪者之哀也。驅而前!」少進,見有異人焉,擁鐮帶索,哭音不哀。孔子下車,追而問曰:「子何人也?」對曰:「吾、丘吾子也。」曰:「子今非喪之所,奚哭之悲也?」丘吾子曰:「吾有三失,晚而自覺,悔之何及!」曰:「三失可得聞乎?願子告吾,無隱也。」丘吾子曰:「吾少時好學,周徧天下,後還喪吾親,是一失也;長事齊君,君驕奢失士,臣節不遂,是二失也;吾平生厚交,而今皆離絕,是三失也。夫樹欲靜而風不停,子欲養而親不待。往而不來者、年也;不可再見者、親也。請從此辭。」遂投水而死。孔子曰:「小子識之!斯足為戒矣。」自是弟子辭歸養親者十有三。

論語 孔子
孔子が斉に出掛けた途上、泣き叫ぶ声が聞こえてきたが、いかにも悲しそうである。孔子は従者に言った。「まことに哀しい声だ。だが親しい者を亡くした哀しみとは思えない。何かおかしい、車を急がせよ!」

しばらく進むと、変わった風体の男がいて、鎌を抱き、縄で腰を締め、泣き声を上げつつも、表情はむしろからりとしている。孔子は車を降りて男に近寄った。「どなたでござる。」

男は答えた。「丘吾子と申す。」「貴殿を拝すると、お身内を失われたようには思われぬ。なぜ哀しげにお泣きになる。」「拙者は三つの大事なものを失い申した。しかれど気付くのが遅すぎた。ゆえに泣いたのでござる。」「率爾ながらお尋ね申す。その三つとは何でござる。隠さずご教示賜りたい。」

丘吾子「拙者は若き日に学問を好み、師を探して天下を巡り申した。その間に親を亡くしてござる。これが一つ。斉国公に仕えたが暗君におわして、最後まで仕え通せず、臣道を全うできずにしまい申した。これが二つ。友を手厚く迎えたが、今はいずれも手切れとなり申した。これが三つ。

樹木は静かにたたずみたくとも、風はそれを許さず、子は親を養いたくとも、親の寿命は待たず。取り返しが付かぬものは実に時でござる。親でござる。どうかご念の端に留め置き下さればかたじけない。」

そう言い終えると、川に身を投げてしまった。孔子は振り返って弟子に言った。「諸君、よく覚えておきたまえ!」貰い泣きした弟子の中から、帰郷して親を養いたいと願い出た者が、十と三人出た。(『孔子家語』致思10)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/340.html

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