本日の改訂から

宇野の言う「范祖禹の説」とは次の通り。ついでに楊時の説も記す。

范氏曰:「要君者無上,罪之大者也。武仲之邑,受之於君。得罪出奔,則立後在君,非己所得專也。而據邑以請,由其好知而不好學也。」楊氏曰:「武仲卑辭請後,其跡非要君者,而意實要之。夫子之言,亦春秋誅意之法也。」

范祖禹 論語 楊時
范祖禹「主君に強要するのは思い上がりであり、重い罪である。武仲の邑は、主君から拝領したものだ。罪を犯して国を出たあとは、主君の手に戻る。自分勝手に出来ないはずだ。それなのにその邑に立てこもって強要したのは、領地にこだわるあまり、道理を学ぶための学問を好まなかったからだ。」

楊時「武仲は下手に出て家名存続を乞うたが、跡継ぎを強要しなかったと言っても、実は強要したのだ。論語の本章に記された孔子先生の言葉は、先生が歴史書『春秋』を書いて、”過去の不届き者の悪行を、それとなく暴き立ててやる”と仰せになったのと同じ書き方で、武仲の強要をそれとなく、だ。」

以上をどう読むかは人それぞれだろうが、何の根拠も無く悪党呼ばわりしている。頭がおかしいとしか思えない。文化人類学的には、交通の杜絶した山奥の寒村などで、こういう集団発狂を観察できることがあるが、宋帝国は栄西が『喫茶養生記』で褒めちぎったように、紛れもないアジアの大国だったはずだが。

また宇野は「知」を”知識”と解したようだが、それでは文意が通じない。ここでは”知行”の意で、東京帝国大学教授の漢文読解力だろうと、所詮この程度である。


『左伝』を読む限り、孔子は臧武仲が魯公を脅したとは思っておらず、むしろ自分と同様、殿様にすがろうとしたがかなわなかった、と論語の本章は解釈すべきだ。論語と言えば二言目には「三桓ガー!」と書くのは、ごろつきエコロや憲法九条教徒の発狂と変わらない。

儒教にオカルトを持ち込んだのが、朱子を筆頭とする宋儒であることは、たびたび記したとおりだが、オカルトには例えば「九条は絶対に正しい」という思い込みを人に植え付け、それに都合のよい情報しか頭に入らなくさせる作用がある。つまり一種のクルクルパーである。

クルクルパーは、漢儒の董仲舒が儒教を帝国のイデオロギーとして作り替えたころ以来の特徴で、儒教からこの作用を分別して「儒術」という。人をクルクルパーにして従わせる技術を指す。九条が元・米占領軍や現・中朝韓にとって儒術の一種であることは、言うまでも無い。

そして平気でオカルトを儒教に持ち込んだ宋儒の高慢ちきは、科挙制度の確立と不可分だ。科挙制とは夢見がちな人類があこがれる賢人政治の一種で、試験秀才が社会を統治する仕組みだが、見事に失敗した。理由はいかなる賢人政治も、揃って一層の愚民化を目指すからだ。

さらに差別と迫害と不公平を肯定し、反対者を虐殺する。住人の心は荒れ果てる。

Изменниковイズミェーニコフ подлыхポードリフ гнилуюグニールユ породуパドードゥ
”裏切り者は卑劣にも、腐り切ってはびこっている”

Тыトィ грозноグローズナ сметаешьスミェターイェシ с путиプーチ своегоスウォーイェウォ.
”党よ、君は奴らを震え上がらせて一掃する”

Тыトィгордостьゴルダスチ народаナローダ, тыトィмудростьムゥードラスチ народаナローダ,
”君は人民の誇り、人民の英知”

Тыトィсердцеシェルツェ народаナローダ, тыトィсовестьソーウェスチ егоイェウォ.
”君は人民の愛情、人民の良心”

(ロシアボリシェビキ党歌)

それには一つの例外も無い。こんな歌を歌っている者こそが、特権階級そのものとなる。

人類が生物である以上、賢人政治は向かない。いかなる賢人志向政治も、実は反知性主義に他ならないことは、ルイセンコ論争のような「あーあ」が示している。だからチャーチルが喝破したように、民主主義が最悪でありながら、他のいかなる政治制度よりマシでありうる。

以上のことは、現代の論語読者にはどうでもいい話に見えるが、権威は一旦確定すると、権威者当人も思わなかったでっち上げを横行させるから油断できない。論語の本章のデタラメ解釈も、事の発端は宇野・吉川と言うより、むしろそれ以前の儒者のごますりにあるだろう。

そういう論語にぺったり貼り付けられたウソの一例が、本章にも見られるわけで、学問として論語を読む若い人は、十分注意して頂きたい。要は自分で原書を求め、自分で辞書を引き、自分で解読し、自分の言葉で書けばいい。小学校の理科実験に帰ったような気持になることだ。

数学者もマンデルブロ級だと、黒板一杯の数式を一目見ただけで、高次元の図形が運動するさまが頭に浮かぶという。それができない訳者如き文系バカは、せめてしげしげと現象を観察し、ちまちまとデータを記録し、ちくちくとグラフを引いて、事の傾向を読み取るしか無い。

漢文の読解も同じだ。まずは徹底的に辞書を引くこと。それ無しでは始まらない。言い換えるなら、「知るを知ると為し、知らざるを知らざると為す」(論語為政篇17)ことだ。この立場に立つ限り、ソーカル事件のような、数理に対する劣等感に悩まされることもなくなる。

そうした劣等感からの解脱は、必ず人生を豊かにするに違いない。ごろつきエコロもえせリベラルも、その狂態は実のところ、劣等感からの解放を求めてのことに他ならない。どうせ解放されるなら、人様に迷惑を掛けない方が心地よかろう? そう考えるのが人文というものだ。

だが詐欺漢を兼業する人文業者は、このようなインチキで人をたぶらかしてきた。

S(記号表現)/s(記号内容) = s(言表されたもの)、
S = (-1) によって、 s = √-1 が得られる

(橘玲『”読まなくてもいい本”の読書案内』)

ラカンの理論を「疑似科学」とする見方もある。…ラカンは自らの理論を数式として表すことを好んだが、物理学者アラン・ソーカルらは、これが数学的にはまったくのデタラメであり、科学的な外観を装う虚飾であると批判した。(wikipediaジャック=ラカン条)

これが日本の団塊、欧米のヒッピー、中国の紅衛兵をクルクルパーにし、大勢の人を死ぬ目の不幸にした。訳者も団塊には、何度も何度も、よってたかっていびり殺されかけた。たとえ話ではない。死んだ方がましと思わせるようなことを、奴らは実際にやりやがったのだ。

シャンイー!上了一个ハオ!…シェンパオ!”誰でもいい、俺の戦車に乗れ!…よく来た!”
先生シェンション。”よろしくお願いします。”
什么シェンマシィタオ?”何を持ってきた?”
チエン”つるぎだ。”
シィハオツァイ団块トゥアンクアイレンチェンチーヨウイーハオツゥ!”よかろう。団塊の前では、ただ一字あるのみ!”
什么シェンマツゥ?”何だ?”
シャー!”○せ!”
シャー!”○せ!”


だが自覚ある文系バカならば、ごじゃごじゃした数式に、ただ一言問えばよい。「何ですかこりゃ」と。聞いても分からなければ、堂々と「分からん」と言えばよい。何せ孔子様が味方に付いている。怖がらずに断じたらよい。「はあ。あなた私を欺そうとしてますね。」

誰にでも出来る不幸予防法と思う。素人に分かるよう説明できない専門家は役立たずであり、素人に分かり得ない事物は核廃棄物だ。かかわってはいけない。分かったことだけで楽しく生きる。孔子も次のように言って励ましている。

子路問於孔子曰:「君子亦有憂乎?」子曰:「無也。君子之修行也,其未得之,則樂其意;既得之,又樂其治。是以有終身之樂,無一日之憂。小人則不然,其未得也,患弗得之;既得之,又恐失之。是以有終身之憂,無一日之樂也。」

論語 子路 あきれ 論語 孔子 たしなめ
子路「君子になれても、まだクヨクヨと悩む羽目になるんですかね。」

孔子「そりゃあ無いな。君子が世のことわりを学ぶと、まだ自分に出来ない事は出来たあかつきを思って楽しみ、出来ることは、その成り行きを楽しむ。だから生涯悩みが無いし、毎日をクヨクヨ過ごすことも無い。

小人はそうでない。まだ出来ない事を、出来ないからと言って悩み、すでに出来ることも、成果を横取られたらどうしよう、と悩む。だから生涯悩むことになるし、悩まない日が来ることも無いわけだ。」(『孔子家語』在厄2)

して来たことを誇れるよう行動しよう。その成果に自信を持つために。たった一つでも自信があれば、𠮷外や詐欺師の食い物にならずに済む。他人を不幸にする必要も無い。訳者が文系バカに過ぎないのに、論語の解釈に限っては、世界の誰にも引け目を感じていないように。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/347.html

だが悪党呼ばわりされるほど、文公が悪かったわけではなく、桓公は天真爛漫だったかも知れないが、褒めちぎるほどの名君ではない。だからだろうか、『論語集釋』に引く中国儒者も、本章は「何か変や」と思ったらしい。

史記晉世家重耳奔狄是時年四十三又云重耳出亡凡十九歲而得入時年六十二矣果爾誠可為老然遷多妄說不若左傳國語足信左傳昭十三年叔向曰我先君文公生十七年亾十九年國語僖負覉曰晉公子生十七年而亾按此則文公入國甫三十六歲即薨亦只四十四耳杜元凱言戰城濮文公年四十近之

『史記』の晋世家では、のちの文公である重耳は、四十三歳で蛮族の地へと亡命したという。また亡命の期間は十九年に及ぶと言う。だから帰国して即位したときは、もう六十二になっていた。それゆえ老い先短いのを気にして焦り、悪事を働いたということらしい。

だが司馬遷は間違っている。『左伝』や『国語』の方が信用できる。『左伝』の昭公十三年、晋の家老の一人・叔向(=羊舌肸)がこう言ったと書いてある。「我が先君の文公は、御年十七で亡命され、十九年間放浪された」と。『国語』では僖負覉が言った。「晋の公子は十七歳で亡命した」と。

すると文公は帰国した時、やっと三十六歳だったことになる。そして亡くなったのもたったの四十四歳だ。杜元凱も言っている。「楚との間の、城濮の決戦の時、文公は四十かそこらだった」と。(『四書釋地』四書釋地三續卷中50)

文公の史実については、訳者の手に余るから何とも言えない。だが公子が文公を悪党扱いしたというのには、訳者もまた「変や」と思う。その理由がこれ。

且芝蘭生於深林,不以無人而不芳;君子修道立德,不為窮困而敗節,為之者人也,生死者命也。是以晉重耳之有霸心,生於曹、衛;越王句踐之有霸心,生於會稽。故居下而無憂者,則思不遠;處身而常逸者,則志不廣。庸知其終始乎。

論語 子路 怒り 論語 孔子 居直り
(孔子一行が陳蔡のあたりで包囲され、食を断たれて難儀した。怒り狂ってブツクサ言った子路に孔子が答えた。)

「…かぐわしい芝草や蘭草は、誰もいない森の奥に生えるが、人がいないからと言ってかぐわしくないわけでは無い。君子が修業して技能を高めるのは、困窮したときに血迷わないようにするためだ。人間は努力する、どうなるかは天が決める。ジタバタしても始まらない。

のちの文公が覇者への道を決意したのは、苦しい亡命の最中だったし、越王勾践が覇道を決意したのも、会稽の戦いで大敗した後だった。だから不遇にもめげない者だけが、やがて大望を達成する。目先のことにあくせくする者は、大した志望は持たないものだ。そんな者に、どうして事の移り変わりが分かるものか。」(『孔子家語』在厄1)

文公を悪く言っていない。むし不遇の時にも大望を忘れなかった大人物として説いている。ほぼ同じ話を『荀子』も伝えており、戦国時代が終わるまでは、文公悪党説は儒家の間で語られなかった。秦代の儒者は始皇帝が怖くて、ひたすら大人しくしており新説を立てていない。

「焚書坑儒」の後半はでっち上げで、罰されたのは始皇帝を欺したオカルト方術士どもだったと『史記』始皇帝本紀を読めば分かる。となると文公悪党説を言い出したのは、どうやら漢儒、それも論語の本章が定州竹簡論語にあることから、董仲舒あたりの創作らしい。

というのも、漢儒で文公の悪口を書いた者が、他に見あたらないからだ。漢儒の先駆者は高祖劉邦に用いられた叔孫通だが、書いたものが残っていない。次に古いのは『新書』を書いた賈誼で、取り立てて文公を悪党だとは書いていない。

古者周禮,天子葬用隧,諸侯縣下。周襄王出逃伯鬥,晉文公率師誅賊,定周國之亂,復襄王之位。於是襄王賞以南陽之地,文公辭南陽,即死得以隧下,襄王弗聽,曰:「周國雖微,未之或代也。天子用隧,伯父用隧,是二天子也。以地為少,余請益之。」文公乃退。

賈誼
むかし周の礼法では、天子の葬儀には墓穴に向けて斜めの道を掘って棺を運び、諸侯の場合は縄で吊り下ろした。周の襄王が亡命を余儀なくされたとき、晋の文公が兵を出して賊を討ち、周の内乱を鎮めた。襄王は復位すると褒美として、南陽の地を文公に与えた。

文公「南陽は結構ですから、私にも斜めの道をお許し下さい。」
襄王「ダメじゃ。周は衰えたとは言っても滅んではおらん。恩義ある伯父どのの願いじゃが、許せば天子が二人になってしまう。南陽が小さいというなら、足してやるから辛抱せい。」

文公は「では結構です」と願いを引っ込めた。(『新書』審微4)

物わかりがいいと言うべきだ。それにしても、なぜ悪党説など言い出したのだろう? 考えられるのは一つで、儒者官僚にとって、あれこれ口出すする君主は暴君で、何でも任せてくれるのは名君だからだ。要するに、儒者がワイロと利権を独占しやすくするための作文である。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/348.html



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