本日の改訂から

論語の本章を、従来訳の注には「古註では、前章と合して一章となつている。」という。現代中国での解釈例も、引用元では二章を一体化し、古注は実際そうなっている。

子曰不在其位不謀其政曾子曰君子思不出其位註孔安國曰不越其職也疏子曰至其位 云子曰云云者誡人各專己職不得濫謀圖他人之政也云曾子曰云云者君子思慮當已分內不得出己之外而思他人事思於分外徒勞不可得袁氏曰不求分

孔安国 論語 古注 何晏
注釈。孔安国「その職分を超えないように言ったのだ。」

付け足し。先生は身の程を語った。「子曰く…」は、人はその職分に専念すべきで、みだりに他人の職分のことを考えてはならない、ということである。「曽子曰く…」は、君子の思慮は職分内にあるべきで、職権外や他人の仕事を考えてはならない、ということである。職権外のことを考えても無駄に終わり、何にもならないのである。

袁氏「職権外のことを求めてはならない。」(『論語集觧義疏』)

もし二つを問答と解せば、現代語訳はこうなる。

論語 孔子 説教 論語 曽子 ウスノロ
孔子「人の仕事にちょっかい出すな。」
曽子「はい。私はうすのろですから、分不相応なことは考えられません。」

ところが儒者がオカルトにこり出した宋代、本章を独立させたのはいいのだが、解釈が珍妙になった。

此艮卦之象辭也。曾子蓋嘗稱之,記者因上章之語而類記之也。范氏曰:「物各止其所,而天下之理得矣。故君子所思不出其位,而君臣、上下、大小,皆得其職也。」

論語 朱子 新注 范祖禹
朱子「これは易のゴンの卦を説明したのである。たぶんいつの日か曽子が易を説明したのを、論語の編者が覚えていて、前章の説明のために入れたのである。」

范祖禹「物にはおのおのふさわしい場所というものがある。そのように整えて初めて、天下のことわりが分かるというものである。だから君子は分不相応なことを思わず、君臣・身分の上下・年齢の大小は、それにふさわしい場所を得るのである。」(『論語集注』)

易の艮とはの形。山を象徴し、頂から二筋の尾根と間の谷、北東うしとら。「性止まる」とされる。だから「分相応」につながる。だが朱子自身が「たぶん」と言っているように、曽子が思いもせず、当時成立していたかも怪しい、現伝の易を持ち出したのにはわけがある。

吉川いぼじろう
朱子は、もとよりわけワカメな易を「ボクちゃん知ってるじょー」と自慢したかったのだ。吉川が珍妙な唐音や中国語音を持ち出したのに似ている。中国語の音韻学や北京語を知る者には、吉川のハッタリは笑いものでしかないが、易はそうはいかなかった。

誰にも分からず、どうとでも取れるようにしか書いていないからだ(→『周易』現代語訳)。こういう場合、権力を持つ者の解釈でなければ、図々しい奴の解釈が世にまかり通るのは人類史上に普遍的現象だ。朱子は生前、決して権力的には恵まれなかったため、後者と言える。

これが図らずも、朱子の易解釈がデタラメだと証している。易が分かるなら、なんで政治的に不遇になるのだろう。占い師は「自分を占うと当たらない」と言い訳するが、朱子には他人を占えば当たったのだろうか。かなりキツい弾圧を喰らったからには、そうではあるまい。

時の権力者が何を考えているか、当てることが出来なかったのだから。

さて時代を遡って、本章を偽作した儒者の意図について考えよう。役人が嫌うのは自分の職権が制限されることで、それは直ちに収賄機会の減少に繋がるから、とりわけ儒者官僚にとっては死活問題だった。従って権威化された曽子の「ちょっかい出すな」発言は有り難い。

また現伝論語とほぼ同時期の成立になる『孔子家語』は、現伝論語ほど曽子ばなしが収められていないので、その分信用したくなる。ただ曽子ばなしは皆無ではなく、本章と同じ様な、しおらしいと聞こえなくもなく、その実高慢ちきな話を伝えている。

曾子弊衣而耕於魯,魯君聞之而致邑焉。曾子固辭不受。或曰:「非子之求,君自致之,奚固辭也?」曾子曰:「吾聞受人施者常畏人,與人者常驕人。縱君有賜,不我驕也。吾豈能勿畏乎?」。孔子聞之,曰:「參之言足以全其節也。」

曽子
曽子がボロをまとい、魯国で百姓仕事をして生活していた。気の毒に思った魯の殿様が、「まちを一つ領地にやろう」と申し出た。だが曽子は頑として断った。

ある人「あなたからクレクレと言ったわけでもないのに、せっかくの殿様の好意を無駄にしていませんか?」

曽子「世間で言うだろう、貰って生活する者はいつも怯えていなくてはならず、施す者はいつも威張り返っている、と。たとえ殿様がヤルヤルと言っても、偉そうにされたら頭に来るだろう。そんなのイヤに決まっている。」

話を聞いた孔子「曽子の奴、あの鼻っ柱は大したものだ。」(『孔子家語』在厄3)

まともな史料には、論語時代の魯の殿様と言えばけち臭い話ばかり伝わっており、まちを一つ呉れてやるような、太っ腹だったわけがない。そしてまちの領主と言えば、春秋時代の身分秩序では殿様に次ぐ高位に相当する。つまり別伝のこの話も、どう解しても後世の贋作である。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/360.html

論語の本章は、文意は明確だし、定州竹簡論語になく、かつ「恥」の字を使っていることから、後漢儒者による贋作は明らかで、現代日本の論語読者としては、特につけ加えることはない。だが中国人にとって、論語の本章の「而」を用いた修辞は奇妙に思えるらしく、『論語集釋』はあれこれ書いている。

皇本作「君子恥其之過其行也。」潜夫論交際篇「孔子疾夫言之過其行者。」亦作「之」字。論語衍説、諸説皆以此為一事、謂恥其之過於行也。於義固通、但須易「而」字為「之」字乃可。天文本論語校勘記、足利本「而」作「之」、古本、津藩本、正平本末有「也」字。

按、礼雑記「有其言而無其行、君子恥之。」又表記「君子恥有其辞而無其徳、有其徳而無其行。」皆足与疏説相証。邢疏、「此章勉人使言行相副也。君子言行相顧、若言過其行、謂有言而行不副、君子所恥也。」拠此、則邢本亦当皇本同、似今注疏本皆依集注校改、非其旧矣。玩本文語気、不当為両事、集注失之。

論語 清儒
本章を古注の皇侃本は、「君子恥其之過其行也」と書き、後漢初期の『潜夫論』交際篇は、「孔子疾夫言之過其行者」と書いている。どちらも「而」ではなく「之」と記す。『論語衍説』によると、諸説みなここを「之」と書き、「恥其之過於行也」と記す。「之」と「於」は言うまでも無く語義を共有するが、「而」の字に限っては、「之」に改めた方がいいだろう。日本の天文本論語の校勘記には、「足利本は而を之と書き、古本や津藩本、正平本には、文末に也の字が無い」とある。

私の考えでは、『礼記』雑記篇に「有其言而無其行、君子恥之」とあり、また表記篇に「君子恥有其辞而無其徳、有其徳而無其行」とある。どちらも古注の説と一致している。北宋邢昺の注釈では、「本章は人に言行一致を勧めたのである。君子は発言と行動を照らし合わせ、発言が行動より大げさなら、”口先だけで行動が伴わない”と判断し、恥じたのである」と言う。これによると、邢昺本も古注の皇侃本と同じであり、今通用している論語の注釈本は、全て朱子の新注によって書き改められたもので、古い姿を留めていない。本章の言葉をよくよく吟味してみると、「而」でつないで「言」と「行」を対立させているのは、新注の間違いだと思う。

また元の陳天祥の『四書辨疑』を引いてこうも記す。

註文以耻其言與過其行分為兩意解耻字為不敢盡之意解過字為欲有餘之辭聖人之言恐不如此之迂曲也且言不過行有何可耻行取得中豈容過餘過中之行君子不為過猶不及聖人之明論也註文本因而字故為此說本分言之止是耻其言過於行舊說君子言行相顧若言過其行謂有言而行不副君子所恥南軒曰言過其行則為無實之言是可耻也耻言之過行則其篤行可知矣二論意同必如此說義乃可通而字蓋之字之誤

注釈。朱子の新注では、「耻其言」と「過其行」を分けて二つの意味に取り、「恥」の字を解説して”意図的にやり尽くそうとはしない”と言い、「過」の字を解説して”やり過ぎようと望む”と言っている。聖人孔子が言ったのは、こんな回りくどい意味では無い。それに「言葉が行いより大げさでない」のなら、何で恥じなければならぬのだ? 行動がほどほどに収まっていれば、どうしてやり過ぎを望んだりするのか?

やり過ぎは君子の戒めるところで、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」と聖人孔子も仰っている。新注は「而」の字に基づいて、こういう説を述べているのだが、もともと「而」は「之」だったのであり、行動より発言が大げさなのを恥じているだけだ。

古注では、君子は行動と発言を照らし合わせて、言葉が過ぎていたら、それは口先ばかりと反省し、恥じると言っている。南宋の南軒曰く、「行いより言葉が過ぎていたら、それはつまりハッタリであり、恥ずべきだ。十分反省したら、手厚い行いの何たるかを知るだろう。」

二つの説はほぼ同じだが、論語の本章の要旨は、この通りだと思う。そして「之」の字が正しく、「而」の而は間違っている。(『四書辨疑』巻七33)

新注=宋儒の朱子による論語の解釈は、中華帝国の公式解釈で、それへの批判は、時に刑死の覚悟が要った。中国では古典や文芸の評論が、一大政治事件に発展する例は珍しくない。殺戮の限りを尽くした文化大革命が、『海瑞罷官』という戯曲の評論から始まったように。

科挙=高級官僚採用試験も、朱子の解釈に従って出題され、採点された。だから科挙に挑む者は、必死になって朱子の注釈を丸暗記したのだが、幼少期から叩き込まれるため、オカルト満載の朱子学的解釈に、ほとんど疑いを持たない儒者ばかりが出来上がった。

だから上掲の批判は大胆に思えるが、実はタネも仕掛けもある。『四書辨疑』を書いた陳天祥は元代の儒者で、朱子学が帝国のイデオロギーに採用される明初より前だし、『論語集釋』を編んだ程樹徳は、清儒ではあるが活動時期は、清末から民国初期にかけてだった。
論語 歴代王朝と孔子

権力が一切に優先する。中国とはそういう、オソロシイ社会なのだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/361.html

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