論語の本章は、論語子罕篇30をもとに、おそらく前漢の儒者がこしらえた贋作。「耐」の字の初出は始皇帝の統一前後に記された秦系戦国文字(睡虎地秦簡)で、ほぼ秦代と言って構わない。秦代の儒者は始皇帝が怖くて大人しくしていたから、こういう捏造をするとは思えない。
捏造の根本動機は、論語の後半になって元ネタが切れ、重複も恐れず膨らました結果だろうが、論語子罕篇とは物言いの順序が異なっている。
論語子罕篇
智者不惑、仁者不憂、勇者不懼。
智者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。論語憲問篇(本章)
仁者不憂、知者不惑、勇者不懼。
仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。両者の間に敢えて理屈を付けるとしたなら、孟子による「仁義」提唱以前の孔子の発言では、智者が最初に挙げられたのに対し、「仁義」以後の本章では、仁者が冒頭に挙げられた。これは単に漢儒の好みを反映しただけで、そこから意義を見出そうとするまでもあるまい。
なお「知」と「智」だが、論語の時代にはともに「𣉻」と書かれて区別が無い(→語釈)。
ただ気になるのは、漢儒が「重複を恐れなかった」こと。現伝論語の成立は前漢武帝期頃に始まるが、同時期に例えば『孔子家語』の原形は存在していたことが定州竹簡の発掘より分かっている。どうして『家語』からネタを取り出さなかったのか。儒者の派閥の影響だろうか。
今は何も言えないが、当時は資料にも選択肢があったことだけは確かだ。
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