論語の本章は、通説的には『史記』の記述に従って、孔子が魯国に帰った晩年、聖獣の麟が捕らえられたので世に絶望し、本章のように子貢に愚痴を言ったあとで引き籠もり、史書『春秋』の執筆に取りかかったきっかけだったとされている(『史記』孔子世家)。
つまり司馬遷の筆を真に受けるなら、貴族が狩りで変なけものを取ってしまった、と気味悪がって、もの知りとして高名な孔子が呼ばれて出向き、両手でけものの後ろ脚の間をごそごそまさぐって、「麟じゃな」と断定した。麒麟のメスを麟といい、オスを麒と言うからである。
麒麟は「仁獣」ということになっており、体の横にこの世の真理を表す八卦図が浮き出ており、聖王が現れるとこの世に出て来ることになっている。これは舜王が即位すると、目出度い鳳凰が宮殿に飛んできて、音楽に合わせて舞い踊ったという『史記』の記述と同類である。つまり全部デタラメだ。アニメや特撮を論拠に過去を語るようなもので、それに疑いを持たせないよう、漢帝国以降の儒者官僚は世間にクルクルパーの粉を撒き、子供の頃からそれにさらされた中国の識字階級は、これを真に受けた上で本気になって論語を考証した。
『論語集釋』にはそうした頭のおかしな記事が多数載せられているが、今どき怪獣映画の台本にもなりそうにない。
史実として孔子は、その名が経巡った諸国はおろか、はるか南方の呉越にも知られた。もちろん南方の大国・楚でも知られたことは『史記』にも記述がある。西北の大国・晋、西方の大国・秦については記録を見たことが無いが、春秋政界の有名人だったことは間違いない。
「知られない」を儒者がうそ泣きするように、どの諸侯も採用しなかったと言うのもウソである。放浪人の孔子を衛の霊公は、現代換算で111億円もの年俸で雇っている(論語憲問篇20)。孔子が一時は衛国乗っ取りを計ったにもかかわらず、再受入までしている優遇ぶりだ。
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孔子が霊公を「無道」と言ったのは、政権をごっそり寄こさなかったからで、これは霊公より孔子の方が図々しい。当時の誰より理知的な孔子は、自分の無茶を分かっていたはずである。それゆえ子貢が孔子に「知られないはずが無いじゃないですか」と言ったわけ。この子貢の問いは重要で、本章の「知」を、孔子の教説を理解しない、と解すると理屈が通らなくなる。
孔子「誰もワシの言うことを理解せん。」
子貢「理解しないわけが無いじゃ無いですか。」これは成り立たない。簡単に理解できないことを説いたから孔子は学者として高名になったのであり、アインシュタインやホーキング博士の論文が、足し算引き算や九九だったら、誰が敬意を払うだろうか。その教説が分からないから、不世出の学者と言われたのである。
孔子「誰もワシの名を知っておらん。」
子貢「そんなわけ無いじゃないですか。みんな知ってますよ。」これは成り立つ。孔子の言うことが事実に反するから、子貢は言い返すことが出来たのだ。従って次のように解するのも、また理屈が通る。
孔子「誰もワシを雇わんな。」
子貢「そんなことないじゃないですか。霊公さまはどうなんです。」そしてこのやりとりの後、「下学…。」と孔子はぶつぶつ繰り言を言う。知=無名だと断じると、この繰り言はただのぼやきに過ぎない。だが知=雇うと断じると、「子貢の言うように地位は上がった」を意味し、「結局ワシを雇ったのは天だ」と理解できる。
孔子は高禄は得たが、言う通りになる諸侯には出会えなかった。霊公はやり手の殿様な上、家臣が有能で孔子の付け入る隙が無かったからだ。だから「知」の半分は達成したが、それを霊公からとは「天命を知る」孔子は思わず(論語為政篇4)、天が自分を雇ったと結論したわけ。
論語の本章は、上記の検証にかかわらず、孔子一門の中に何らかの不協和音は実際にあったと思われる。だが全体が創作であるのは間違いなく、とりわけ「道」「命」うんぬんは孔子と全く関係が無い。「孔子が理想の政治論を持っていた」というのはほとんどウソに近いからだ。
孔子は庶民出身の弟子を教えて貴族界に押し上げ、春秋時代の身分秩序を破壊するという、その意味では紛れもない革命家だが、人々の思いもよらぬ政治論を、実現しようとはしていない。後世の儒者が勝手に、聖王政治とか、復古政治などを言い立ているに過ぎない。
二次大戦中に、立派に振る舞った人々はいた。だが立派な人から先に死んでしまった。日本もまた『夜と霧』の世界だったのだ。でなくては、占領中に54万通に及ぶ手紙がGHQに寄せられ、そのほとんどがアメリカにおもねる内容だった(→研究論文)ことの説明が付かない。
GHQは占領開始からの一年間、意図的に日本の飢餓を起こした疑いがある。戦争中の欠乏もひどかったが、餓死者が続出するようになったのは敗戦から二三年のことである。親子兄弟や親しい人を殺され、そしてさらに干殺しに遭っている最中、こんなふざけた手紙を書いたのだ。