昨日の改訂から

將(将)命

論語 将 金文
「将」(金文大篆)

「将」も「命」も超多義語で、論語の本章では「将」tsi̯aŋ(平)が近音「承」ȡi̯əŋ(平)と同じく”伝える”、「命」が目上の言葉→”言いつけ”。「将命」で”取り次ぐ(役)”。『礼記』に多用される熟語で、漢代の言葉。◌̯は音節副音(弱い発声)、◌̥は無声音。

論語が描く春秋時代の中国語にはほとんど熟語が見られず、このことが本章を史実でないと断定する理由になり得る。論語語釈「将」論語語釈「命」も参照。

通説ではこの熟語を「命をおこなう」と読み下し、「将」をただの”する”と解しているが、それは平安の昔以来、おじゃる公家やくそ坊主がいい加減に漢文を読んだのを猿真似しただけで、ちゃんと調べたわけではない。漢学教授もここを放置している連中が多いが、もはや何も言う気にもなれない。

またこの部分に、古注は注釈を付けているが、それは言い換えると、『礼記』をでっち上げた当時から、「将命」などと言う言葉は、普通の人にはヘンに聞こえたことを意味している。古さを演出するためのハッタリで、荻原重秀が小判を改鋳したとき、薄まったきんの色に困った金座が、「色揚げ」という細工を施したのによく似ている。

註馬融曰闕黨之童子將命者傳賓主之語出入也…註童子隅坐無位成人乃有位也…註苞氏曰先生成人也竝行不差在後也違禮欲速成者也則非求益者也

馬融 包咸
馬融「将命とは、客と主人の言葉を伝えるために行き来する事である。…子供は部屋の隅に座って、取り立てて座席を設けない。成人したら座席が与えられるのである。」

包咸「先生とは成人を言う。並行とは遅れないように後をついて歩くことを言う。礼法を守らず早く大人になりたがるから、向上心の無い者だ、と評された。」(『論語義疏集解』)


論語の本章は上記の検討通り漢代の作文なのだが、作文意図がよく分からない。『漢書』芸文志に言う「伝」から、孔子にまつわる伝説を引いて仕立て直し、論語に付け足したのだろうが、そうまでしてこの憲問篇を長くした意図は何だったのだろう。

現伝『論語』文字数一例(総字数15,900字。版本によって異同あり)
学而 為政 八佾 里仁 公冶長 雍也 述而 泰伯 子罕 郷党
493字 579字 689字 501字 869字 816字 873字 613字 806字 642字
先進 顔淵 子路 憲問 衛霊公 季氏 陽貨 微子 子張 堯曰
1054字 992字 1035字 1340字 904字 863字 1019字 618字 824字 370字

全47章というのも長いが、偽作も多い。○と断定できるのは19章しかなく、疑わしい章まで含めると、偽作率は6割に及ぶ。

論語憲問篇・各章の真偽
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24
真偽 × ? × × × × × × × ×
25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47
真偽 × × × × × × × × × × × ×

論語の本章に話を戻せば、従来訳のような解釈は新注を反映したもの。

與,平聲。闕黨,黨名。童子,未冠者之稱。將命,謂傳賓主之言。或人疑此童子學有進益,故孔子使之傳命以寵異之也。禮,童子當隅坐隨行。孔子言吾見此童子,不循此禮。非能求益,但欲速成爾。故使之給使令之役,觀長少之序,習揖遜之容。蓋所以抑而教之,非寵而異之也。

論語 朱子 新注
与は平調子に読む。闕党はさとの名である。童子は、元服前の呼称である。将命は、客と主人の伝言役である。ある人が、この子供の学問が進むのではないか、と孔子に預けたので、孔子は取り次ぎをやらせて可愛がった。

礼法では、子供は部屋の隅に座り、大人の後をついて歩かねばならない。ところがそうしなかったので、孔子は作法に外れている(行儀が悪い)と評した。行儀作法を見習うより、早く大人になりたかったのである。だから孔子は取り次ぎをやらせ、長幼の序と、へりくだりのやりとりを見習わせた。ということは取り次ぎも教育のためで、取り立てて可愛がったのではないかも知れない。(『論語集注』)

訳者は漢代に伝えられたとされる、いわゆる古論語・魯論語・斉論語といった版本について、国教とまで言われた地位の学派、その開祖の語録が、たやすく滅びてしまったとされることに疑問を感じている。あるいは前漢の時代、儒教はそれほどの地位を持っていなかったのではないか。

漢初、孔子の旧宅には子孫とその弟子が集住しており、武帝の時代には盛んに学問の教授が行われていたことを司馬遷は書いている。だがこの賑わいは漢代を通してのものではなく、論語の本章に現れた孔子邸の在所・闕里も、一時はすっかり荒れ果てたらしい。

子元生子建,與崔義幼相善、長相親也。義仕王莽為建新大尹,數以世利勸子建仕。子建答曰:「吾有布衣之心,子有袞冕之志。各從所好,不亦善乎?且習與子幼同志,故相友也。今子以富貴為榮,而吾以貧賤為樂,志已乖矣。乖而相友,非中情也。請與子辭。」遂歸鄉里。光武中興,天下未悉從化。董憲彭豐等部眾暴於鄒魯之間。郡守上黨鮑府君長患之。是時闕里無故荊棘叢生,一旦自闢,廣千數百步,從舊講堂坦然。

孔子 末裔
(孔子の子孫)子元から生まれたのが子建である。崔義と幼なじみで、成長してからも親しかった。崔義は王莽に仕えて新帝国の大尹(知事)になったが、「儲かるから」と何度か子建に出仕を勧めた。子建はこう答えた。

「私は庶民が性に合っていますし、兄者は役所勤めがお好きでしょう。好みが違うのも、よろしいのではありませんか? それに兄者とは幼なじみゆえに、こうして友達づきあいをさせて貰っています。今や兄者はご出世なされ、私は素寒貧のままですが、それぞれに望む生活を送っています。それでも友情に変わりはありません。境遇が友情に水を差しはしないでしょう。というわけで、私は田舎に帰ることにします。どうぞごきげんよう。」

そして故郷に帰ったが、しばらくして新帝国は崩壊した。光武帝が後漢を建て、まだ天下統一を果たしていなかったとき、董憲・彭豊といった連中が、孔子や孟子の故郷である、鄒や魯で暴れ回った。これらの地を担当する郡守(郡知事)の上党鮑と、府君(府知事)の君長は「大変だ」と言うだけで、何も出来なかった。

そんなさなかに子建はこの地に帰っていたのだが、当時の闕里はもはや誰も住む者が無く、雑草が茂っていた。子建は自分で草刈りから始め、千数百歩の土地を整地し、昔通りに講堂を建てたが、乱世のさなか、そこだけが平和な別天地となった。(『孔叢子』敘世1)

素寒貧という割には、講堂を再建したりして油断のならない話と男ではあるが、孔子ゆかりの地ですら、このような荒れようである。中国を儒教文化圏だというのはまことにその通りなのだが、中国人が儒教を信奉してきたかと言えばそうでない。現代ではなおさらだ。

ともあれ論語の本章の「将命」が示すように、漢文は一字一句をおろそかにしないで解釈する必要がある。日本古語に例えるなら、「何とも思へらず」を”何とも思わない”と訳せば、少なくともまともな大学の入試なら×だ。デタラメは詐欺師以外の、誰の得にもならない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/379.html

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