本日の改訂から

無為

論語の本章では”何もしない”。一般に無為は道家の教えと言われるが、儒者は君主に無為を求めた。君主が何もしなければ、儒者=役人は好き放題にワイロを取り、社会の利権を食い散らかせるからである。本章はそのためのでっち上げだが、論語にねじ込まれて教説として固定化されると、「聖人の教え」として皇帝でさえ重んじなければならなくなった。

交泰殿 無為
北京紫禁城の宮殿の一つ、交泰殿は、清の乾隆帝以降、皇帝の所持する各種の玉璽を保管する場所だったが、その内部には「無為」と記された大きな額が掛かっている。皇帝が政令を出すたびに、この額の言葉を思い出せ、という洗脳装置だった。

最初に書いて掲げたのは、清朝の儒教化に努めた康煕帝である。当時の交泰殿は、皇帝の私的生活空間だった。毎日これを眺めて、康煕帝は自分を洗脳したわけだ。のち火事で焼失したが写しが残っていたらしく、乾隆帝が臨書(お手本を書き写す)して再び掲げられた。


論語の本章は、「無為」を理解するとこでようやく解釈出来る。歴代の儒者が主張した「無為」は、上記の通りワイロ取りのための布石だが、この言葉が生まれた背景には、日本人はおろか、世界中の人間が想像も出来ない、帝政期以降現代に至る、中国社会の苛烈さがある。

舜伝説を創作した孟子は、「舜も人なり、我もまた人なり」と言い(『孟子』離婁下56)、太古の聖王だとは言ったが、何もしないで世が治まったとまでは言っていない。舜ɕi̯wən(去)=俊tsi̯wən(去)才ある人間ではあっても、同じ人間であるとした。

孟子より60年後の荀子になると、やや事情が変わってくる。「昔者舜之治天下也,不以事詔而萬物成」=舜は特に政令も出さなかったのに、万物が成長した、という(『荀子』解蔽10)。当たり前だ、政令が有ろうと無かろうと、生える草木は勝手に生える。

荀子がどういうつもりでこう言ったかは、もはや分からない。「万物成」は”政治がうまく言った”だと、言いくるめることは出来る。しかし漢帝国になると明らかに、人間業とは思えない政治を行った超人として神格化された。やらかしたのはもちろん董仲舒である。

冊曰:「三王之教所祖不同,而皆有失,或謂久而不易者道也,意豈異哉?」臣聞夫樂而不亂復而不厭者謂之道;道者萬世亡弊,弊者道之失也。先王之道必有偏而不起之處,故政有眊而不行,舉其偏者以補其弊而已矣。三王之道所祖不同,非其相反,將以捄溢扶衰,所遭之變然也。故孔子曰:「亡為而治者,其舜虖!」改正朔,易服色,以順天命而已。

武帝の下問があった。「三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王)の教えは元から違っており、それぞれに長短があるようだが、それでも通時代的に変わらぬ原則だと言う者がおる。その通りか。」

董仲舒「不変の道とは、安楽かつ乱れず、そこへ帰っても不具合の無いものを言います。不変の道は政治の乱れを整えますが、乱れがそもそも道を失っていることなのです。

ただし先王の道も、時宜の必要から出た具体的な政令となると、普遍性がありません。だからただ猿真似したところで、効果が無い場合があるのです。具体的な政令は、具体的な問題にしか効き目がないのです。

だから三王の道は当時から違っていたのですが、互いに矛盾があるわけではありません。行き過ぎを抑え不足を補う点で共通しており、これが変転止まない世の中を治める道なのです。

(ですがその要領を把握できたのは、ただ一人でした。)だから孔子が、”何もしないで世を治め得たのは、舜だけだ”と言ったのです。舜のやったことは、暦を改正し、礼服の意匠を変えただけでした。(それで天下が治まったのです。)(『漢書』董仲舒伝35)

董仲舒は顔淵の神格化を始めた男でもあり、舜を含めて儒教を黒魔術化する端緒を作った希代の詐欺師と言える。でっち上げの程度は孟子よりひどいかも知れない。だがそれ以上にひどいのが中国の古代帝国で、武帝は気分次第で家臣とその家族を皆殺しにする暴君だった。

だが暴君の程度には差があるが、現代の国家主席に至るまで基本は変わらない。話を董仲舒に戻せば、上掲の説教は、武帝に向かって一生懸命「何もしてくれるな」と懇願したわけ。家臣や臣民が、例えば荒れ果てた戦場で何万人死のうとも、眉一つ動かさなかった暴君にである。
(→涼州詩)

帝政開始以降、中国社会にカミホトケはいない。その苛烈さは他国人の想像を超える。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/383.html

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