本日の改訂から

こういう礼儀作法関連の話は儒者の大好物のようで、『論語集釋』には儒者がまるで砂糖の山にたかるアリのように寄ってきて、あれこれとどうでもいいウンチクを書き連ねている。その中のただの一人も、論語の本章がニセモノと見破った者はいないし、儒教の礼法なるものが、そのほとんどが後世の儒者によってでっち上げられたものだと気付いている者もいない。

訳者としては、堤防から河原のかぶき踊りを見下ろしているような気分で、鼻水やよだれを垂らして踊っている儒者どもが、まともな人間の類とは思われない。『論語集釋』では珍しいことに、本文をぶつ切りにしてそれぞれに大量のウンチクを記している。

論語集釋
あまりにバカバカしいので、訳者にはざっと読むのがせいぜいの誠実というものだ。

漢儒が論語の本章を偽作した理由は、自分らが社会に規制を掛ける根拠を孔子に言わせたので、例えば気に入らない音楽が流行れば、「鄭声だ」と言って禁止にかかる。誰も鄭声の定義を知らないから言いたい放題で、奏でる者の贈賄額や権力の多寡によって判断が変わる。

この儒者の悪辣に比べれば、何かと騒がれるJASRACなど、聖人君子の集まりに思える。中国社会の救いの無さが、この一点を取っただけで知れるというものだ。それは古代帝国から現代中国にも至る不変の宿痾だが、仮に現地に行っても、見ようとしない者には全く見えない。

此等記録。皆有稟承于大国乎。若不審之輩。到大国詢問無隠歟。今為利生謹録上。後時不改矣。

栄西
以上記した事は、全て大国(宋)で受け継がれてきたことを、私が現地で聞いてきた話だから、ウソだと思う連中は、大国に渡って確かめてくるがよい。そうすれば本当だと分かるだろう。この真実の教えを、今こうやって人々を憐れんで書いてやったのだから、後世の者どもは勝手に書き改めてはならない。(栄西『喫茶養生記』末尾)

誰もが行けないことを知ってこういうことを言う。戦後流行ったアメしょんじじいの走りだが、知らないから拝み倒した。栄西はひたすら修行に励んだ道元と違い、明確に権力にゴマをすって出世を望んだ。『喫茶養生記』を読めば分かるが、とんでもないハッタリ坊主である。

外貨制限の厳しい時代に、用もないのに渡米して自慢した、吉川のたわけとそっくりだ。儒者や栄西のハッタリも吉川のそれも、書いていることに自信が無いからハッタリをかますのである。従ってハッタリが大きければ大きいほど、書いてあることはウソだと思って間違いない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/389.html

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