本日の改訂から

論語の本章に話を戻せば、諸賢の近くにも、人のすることを一々あざ笑わないと気が済まない、人間のクズが一人は居るだろう。そんな奴は子夏の言う通り、学があっても己の不安を、人をおとしめて誤魔化しているだけだ。早く事実を認めた方がいい。クズは所詮クズである。

そしてクズはめったに更生しない。つまり狂人同様、関わらないことしか人には出来ない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/gakuji/007.html

もちろん想像力が皆無に近い儒者の、まるまるの創作ではないだろう。取って付けた元ネタの候補を挙げる。

君子之學也,入乎耳,著乎心,布乎四體,形乎動靜。端而言,蝡而動,一可以為法則。小人之學也,入乎耳,出乎口;口耳之間,則四寸耳,曷足以美七尺之軀哉!古之學者為己,今之學者為人。君子之學也,以美其身;小人之學也,以為禽犢。故不問而告謂之傲,問一而告二謂之囋。傲、非也,囋、非也;君子如嚮矣。

荀子
君子の学習というものは、耳から入ると、心を整え、次いで体を制御し、自分の動きを整える。言葉を正しくし、行動を活発にする。つまり学びを自分の原則として受け入れる。

対して小人の学びというものは、耳から入るとすぐに口に出して受け売りをする。口と耳の間には、僅かに四寸(周代の一寸は約2cm)の間があるだけだ。これでどうやって七尺(1尺は10寸)の全身をまともに整えられるというのか。

昔の学ぶ人は自分を整え、今の学ぶ人は人をどうにかしようとする。君子の学びは、その身を整える。小人の学びは、自分を家畜にする。だから自分が思い上がっているかどうかを問おうとせず、ひたすらベラベラと人に説教するタネを聞きたがるのだ。思い上がりはもちろんみっともないし、ベラベラ知ったかぶりをするのもみっともない。だから君子は叩けば鳴るように、問われるまでは黙っているのだ。(『荀子』勧学篇13)

荀子は戦国時代の最後を飾る著名な儒家で、その教説が孔子よりはかなり異様であることを前漢の儒者は常識として知っていただろう。高校教科書的には、性悪論を唱えて性善論を唱える孟子と対立したとされ、帝国儒教は孟子の系統を主張しているからにはなおさらだ。

だが後漢になると、その違いは大して気にされなくなったらしい。一つには後漢の儒者の、あまりの頭の悪さがある(→後漢というふざけた帝国)。古代の人間の頭の悪さをあげつらってもどうにもならないが、書いたものを読むたび、気は確かかと言いたくなるほどそれはひどい。

ニセ論語指導士養成講座 論語教育不救機構 吉川幸次郎
訳者はそれなりに漢学の教養を教授されたが、誰一人この後漢儒者のていたらくを指摘する者はいなかった。今から思えば、漢学教授のほとんどは漢文が読めなかったし、数理的判断力を持たなかったから、後漢の儒者が書いたものが、いかに下らないか分からなかったのだろう。

論語の本章:
子曰、「古之學者爲己、今之學者爲人。」

荀子勧学篇:
古之學者為己,今之學者為人。

それはさておき、こうまで字面が似ていることから、論語の本章は後漢の儒者が、何らかの目的で論語を膨らますため、荀子の書き物から取って付けたと断じてよろしい。後漢の正史『後漢書』が編まれた南北朝・宋代には、この言葉は孔子が言ったとして疑われなかった。

劉猛,琅邪人。桓帝時為宗正,直道不容,自免歸家。…論曰…子曰:「古之學者為己,今之學者為人。

劉猛は、琅邪の出身である。桓帝の時帝室監督官になったが、あまりにはっきりとものを言うので、いびられて自分から官職を辞め、家に帰った。

編者はこう思う。…孔子は言った。「昔の学ぶ者は自分を整えた。今の学ぶ者は他人をどうにかしようとする」と。(『後漢書』桓栄丁鴻伝32)

現伝の論語が、孔子直後の時代に完成したとは、不勉強にも程がある漢学教授ですらそう思っていないだろうが、その成立が後漢まで下るとは、仕事嫌いの連中に分かる話ではない。だが丁寧に読み解けば、眼前の論語がいかに怪しい本か、諸賢にもおわかり頂けると存ずる。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kenmon/357.html

鄭玄 馬融
ただし論語の本章には、古注に鄭玄の注が付けられている。それを根拠に本章が後漢末にはすでに論語に入っていたと言えはするが、おそらくこの注は偽作である。理由は、漢儒である鄭玄は他の箇所では律儀に避諱を守っているのに、この箇所だけ「邦」と言っている

これは鄭玄と並んで実在が確からしい馬融の注についても言えて、おおむね「邦」の避諱を守っているのに、ある箇所だけ「邦」と言っている(『論語集解義疏』巻七60)。余の孔安国や包咸は漢儒なのに「邦」と言いたい放題で、ここから孔安国の実在までが疑われる。

孔安国 包咸
それでも包咸にはまだ、「邦」と言っておかしくない理由がある。それは包咸の活動期が前漢が滅びた後であり、後漢が天下統一する前だったからで、統一後も生きてはいたが、すでに書いたものまで書き改めるには至らなかった可能性がある。しかし孔安国は完全にアウトだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/gakuji/010.html

論語の本章は、要するに儒者を優遇しろと図々しいことを言っているだけで、現代の論語読者が教訓にすべき何物も記されていない。柳下恵が本当に賢者だったのかの保証も無く、論語公冶長篇14と同じく、後世の儒者によるでっち上げである。

ニセ子貢 ニセ孔子
子貢「亡くなった衛国の家老、孔ギョどのは、なぜ文という立派な戒名を貰ったんですかね。
孔子「仕事が速くてよく学び、目下であろうと賢者にはものを聞いたからだな。」(論語公冶長篇14)

本章によく似多話は論語憲問篇にもあり、こちらも全き史実と断じられない。

むかし衛国の家老・公叔文子の家臣だった僎は、文子の推薦で、同じ家老格の地位についた。先生がそれを聞いて言った。
論語 孔子 褒める
「なるほど公叔どのには、文というおくり名がふさわしい。」(論語憲問篇19)

柳下恵については、論語微子篇に記載があるが、黜の字の使用から、読むそばからニセモノと分かる話。

柳下恵が役人のお目付役になり、三度免職された。ある人が言った。「あなたはまだ去ることが出来ないでいるのですか。」柳下恵が言った。「筋を通して人に仕えるなら、どこに三度免職にならない場所があるだろうか。筋を曲げて人に仕えるなら、どうして必ず父母の国を去るだろうか。」(論語微子篇2)

また微子篇にはもう一つ言及があるが、これもまた慮の字の使用からニセモノである。

先生が…柳下惠と少連を論評した。「志を曲げ、自分をおとしめたが、発言は人の道にかない、行動は思慮の範囲内だった。ただそれだけだ。」(論語微子篇11)

また『孔子家語』は次のような伝説を伝えるが、柳下恵偉かった説が前提にある創作だろう。

魯人有獨處室者,鄰之釐婦亦獨處一室。夜,暴風雨至,釐婦室壞,趨而託焉,魯人閉戶而不納。釐婦自牖與之言:「子何不仁而不納我乎?」魯人曰:「吾聞男女*不六十不閒居。今子幼,吾亦幼,是以不敢納爾也。」婦人曰:「子何不如柳下惠然?嫗不逮門之女,國人不稱其亂。」魯人曰:「柳下惠則可,吾固不可。吾將以吾之不可、學柳下惠之可。」孔子聞之,曰:「善哉!欲學柳下惠者,未有似於此者,期於至善,而不襲其為,可謂智乎。」

魯に一人住まいをする男がいた。隣に一人住まいの未亡人がいた。ある夜、急に風雨が激しくなって、未亡人の家が壊れた。未亡人が走って隣家の男に助けを求めると、男は戸を閉ざして入れなかった。

未亡人が窓から言った。「なぜ入れてくれないのです。」 男「六十になるまで、男女は同居してはいかんと聞いている。私もあなたもまだ若い。だから入れるわけには行かない。」

未亡人「あの柳下恵様のようにはしてくれないのですか。門限に遅れた女を一晩抱いて温めたのに、国中誰もみだらだとは言いませんでしたが。」 男「柳下恵様ならよろしいが、私はダメだ。ダメだからこそこうやって、柳下恵様が抱いて非難されないことわりを学ぶのだ。」

孔子がこの話を聞いて言った。「まことによろしい。柳下恵どのに学んだ者で、このように振る舞った者はまだいない。究極の善事を行おうとして、その真似をしないというのは、智恵ある者だと言ってよろしい。」(『孔子家語』好生6)

なお論語の本章に関して、別伝と思える孔子の発言が『左伝』にある。

仲尼曰,臧文仲其不仁者三,不知者三,下展禽,廢六關,妾織蒲,三不仁也,作虛器,縱逆祀,祀爰居,三不知也。

孔子「臧文仲には貴族らしくないところが三つ、もの知らずな点が三つある。賢者の柳下恵に冷や飯を食わせたこと、六カ所の関所を”廃”したこと、召使いの女にムシロを編ませたことは貴族らしくない。無意味な道具をこしらえたこと、国公廟の位牌の順序を勝手に変えさせたこと、爰居という鳥を拝んだことは、もの知らずのあらわれだ。」(『春秋左氏伝』文公二年)

だが孔子がこう言ったからと言って、臧文仲が愚人とはとても言えないことについては、論語公冶長編17の付記を参照。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/392.html

論語の本章は、定州竹簡論語には見られないが、後漢末の徐幹は、論語の本章にこと寄せてこう書いている。

孔子之制《春秋》也,詳內而略外,急己而寬人,故於魯也,小惡必書;於眾國也,大惡始筆。夫見人而不自見者謂之矇,聞人而不自聞者謂之聵,慮人而不自慮者謂之瞀。故明莫大乎自見,聰莫大乎自聞,睿莫大乎自慮。

孔子が『春秋』を書いたとき、自国については詳しく書き、他国についてはおおざっぱだった。つまり自分には厳しく、他人には緩やかだったのだ。だから魯国については、些細な悪事も必ず書き、他国については、とんでもない悪に限って書き記した。

そもそも他人のあら探しばかりして、自分を反省し無い者を「目が見えない」といい、他人の悪事ばかり聞きたがり、自分への批判は聞かない者を「耳が聞こえない」といい、他人のことばかり批評して、自分の言動を顧みない者を「たわけ」という。

だからよくものが見える者は、必ず自分自身を見るし、聞いてすぐ理解する者は、必ず自分への批判を聞き入れるし、賢い者は、必ず自分の言動を顧みる。(『中論』脩本篇1)

また呂氏春秋にも言及があり、論語の本章は少なくとも、戦国末期までには成立していたのだろう。

故君子責人則以人,自責則以義。責人以人則易足,易足則得人;自責以義則難為非,難為非則行飾;故任天地而有餘。不肖者則不然,責人則以義,自責則以人。責人以義則難瞻,難瞻則失親;自責以人則易為,易為則行苟;故天下之大而不容也,身取危、國取亡焉,此桀、紂、幽、厲之行也。尺之木必有節目,寸之玉必有瑕瓋。先王知物之不可全也,故擇物而貴取一也。

だから君子は人を責めるに当たり、必ず他人の批判を根拠にするが、自分を責めるときには、正義に照らし合わせるのだ。

他人を責めるのにさらに他人の言葉を借りるなら、それで十分説得力があり、だからこそ人々の支持も得られる。自分を責めるのに正義を用いれば、それはおかしいと他人に言われることがめったに無く、めったに無いからこそ自分の行動に、大義名分を付けられる。だから正義の根拠を天地に任せておけば、ものすごい効果があるわけだ。

ところが馬鹿者はそれに気付かず、他人を責めるのに正義を用い、自分を責めるのに他者の批判を根拠にする。正義の名の下に他人を責めれば、誰もかもが口を閉ざしてしまい、支持してくれる者がいなくなる。自分を責めるのに他者の批判を用いれば、悪うございましたと言うのが簡単で、それゆえ一時の言い逃れにしかならない。

だから天下は広大でも、誰も誉めてはくれないのだ。個人なら危ない目に遭うし、国主なら国を滅ぼすだろう。かの桀王、紂王、幽王、厲王も、こうやって国を滅ぼしたのだ。たかが一尺の材木にも節はあり、一寸の玉にも傷はある。昔の聖王は、罪の無い者などいないと知っていた。だから何事に付け選択は慎重に行い、間違いはよほどひどいもの一つだけを責めたのだ。(『呂氏春秋』挙難篇1)

なお徐幹は後漢末の儒教界にあって、珍しいほどの人格者だったらしく、曹操始め三国志の英雄たちが、腐れきった儒者どもを片端からぶった斬って回った中で、例外的に立派な儒者だと尊敬された。だがそれだからだろうか、蔓延した疫病にかかって早死にしたとされる。

だがおそらく、単なる疫病ではあるまい。『傷寒論』を書いた張仲景が、その書の暴騰で歎いたように、上流階級であろうと一族の三分の二が死に絶えたというのは、疫病以前に栄養状態が悪化していたと思われる。当時の貴族=大地主だが、取り立てる穀物すら無かったのだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/393.html

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