本日の改訂から(2)

「郷原」を説明するのに、まさに適した例がある。井波律子『完訳 論語』について、さる地方の世間師が無料ブログに、『論語集釋』を参照していないから、「謙虚でなさ過ぎる」とくさしていた。「北京や上海で通用しないようなレベルの中国学者」なのだと言いたいらしい。

井波氏が世の漢学教授の通例通り、人品陋穢頭脳低劣である可能性は排除しない。だが訳者は個別の事情を存じ上げないから、何も言えることが無い。くだんの訳本についても、必要が無いから読む気も起こらないので、その程度がどうとか言える資格は無い。

だがこの世間師に関しては、明確に言えることがある。

他人の仕事をくさしていいのは、同等の仕事をした者だけだ。この者のブログを検索しても、論語を自力で読んでいる形跡は無いし、『論語集釋』を読んでいる形跡も無い。つまりおのれのあまりの陋劣に耐えられず、名のある人をおとしめて高まっているだけだ。

コスリはこっそりやるもので、人様に見せびらかすのは頭がおかしい。陋劣に耐えられないのは仕方が無いが、情けないと正直に言えば、一人は同情してくれる人が出るかも知れない。だがかかる痴態を見た人は、金にできる精神科医でない限り、狂人と思って近づかないだろう。

また井波氏の訳文を、現代中国での解釈を元に批判しているが、他人のふんどしとはまさにこのことで、中国人の言うことだから無条件に正しいと信じて疑わない。怠惰なおじゃる公家やクソ坊主、江戸のガラパゴス儒者ががやらかした中国崇拝から、全く進歩が見られない。

おじゃる公家
例えば学而篇の「伝不習」を現代中国語読みする、愚かな中国人の猿真似で批判している。これは相当に頭が悪くないとできないことで、高校の時、日本古文が現代語といかに違うかを理解できなかったのだろう。春秋の漢文も中国語だが、現代中国語とはかなり違う。

現代中国語では、「不」「得」などの否定辞や助動詞が、熟語の間に置かれることがある。”よく学ぶ”を「習得好」と言い、「好習得」とは通常言わない。否定も同様で、「習不好」と言い、「不好習」とは通常言わない。だが中国語の古文=漢文ではそうでない。

社会主义好【社会主義はよい】中国音楽

自国語が出来ない者は、決して他国語が出来はしない。古語も同様で、漢文を読めるようになるためには、現代日本語と日本古語、そして現代中国語に通じていなければ話にならない。現代中国語の珍妙さに、ビビってくれるのは素人だけで、玄人にそのハッタリは通じない。

非人口密集地で開帳せざるを得ないのは、それゆえではなかろうか?

中国は日本人の想像を絶して民族の入れ替わりが激しく、言語も大きく変化した。論語の時代と現代では、文字も文法も発音も、別言語と言ってよいほど違っている。そうした変転止まぬ中国史は、まともな専門家なら高校教科書を暗記する程度には、知っているはずなのだが。

漢と唐のどちらが古いか知らないのが、普通の中国人というもので、鎌倉と室町の区別がつかない日本人と同じ。だが専門家として人様から金を取ろうとする者が、普通程度では詐欺に他ならない。「アチラでは」と言い回る詐欺師の手口には、敗戦国民としてうんざりする。

「中国ではこれが流行っているのだから、疑わずに従え」と、栄西は『喫茶養生記』の末尾に記し、ハッタリ坊主であることを白状した。この世間師も中国で学んだようだが、それが却って痴呆の程度を強めたように見える。もとの頭の悪さは、留学で誤魔化せるものではない。

「郷原」とは郷=山奥で、身の程知らずに他人をくさす原ŋi̯wăn=黿”イモリ”のような者を言う。知者の名誉=徳を損ない、おのれの成長機会=徳を損なっている。徳は孔子の生前、生物が本来持つ機能を言う。それを発揮できない理由は、学習と稽古の不足と孔子は思った。

だから我から成長を閉ざし、狭い社会で威張っている者は、紛れもない「郷原」なのだ。そ奴の視点から見れば、見上げていた者を下に見たのだから、見上げた以上に高まった気持になろう。だがハタからみれば、依然そ奴は底辺でうごめくイモリに過ぎず、笑いものでしかない。

漢文業界人はこの世間師のように、名の有無にかかわらず愚劣なのは、なぜなのだろう?

論語 孔子 居直り
生まれつき賢い者は上等だが、普通は学んで知識を得る。それはまあ、悪くない。必要に迫られて学ぶ者も、劣りはするがまだよろしい。だがこの期に及んで学ばない者は、全くもって最低だ。(論語季氏篇12)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/youka/post-15441.html

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