本日の改訂から

論語の本章が、孔子の言葉ではないことは、上記の検証通りだが、役人が結託して利権の独占を図ったのは、古くとも史料上に見えるのが漢帝国成立以降であることから、恐らく論語の本章は、前漢初期に論語の水増しが行われた際、董仲舒によって創作された話だろう。

時代が後漢になると、役人はほぼ儒者によって独占されるようになるが、同時に儒者官僚が党派を作り、これを「党人」と呼んだ。黨(党)という言葉は党派と言うより、上党という地名としてまず史書に現れ、しかもその初出は『史記』であり、春秋時代の言葉ではない。

文字そのものが現れるのも、戦国時代も末になってからのことで、官僚制が未発達の時代には、縁のある言葉ではなかった。中国史上最初に見られる「党」は、高祖劉邦の没後漢帝国を乗っ取った呂氏を排除するため、硬骨の儒者・陸賈とそれに焚き付けられた軍の幹部である。

司馬遷は記す。

丞相陳平、太尉周勃等使人迎代王。代王問左右郎中令張武等。…中尉宋昌進曰:「今大臣雖欲為變,百姓弗為使,其黨寧能專一邪?」

論語 司馬遷
宰相の陳平と陸相の周勃が使いをやって、代王を皇帝に迎えようとした。代王は側近の張武らに、受けたものかどうか相談した。…陸軍次官の宋昌が進み出て言った。「いま、大臣どもが勝手に呂氏の根絶やしをくわだてていますが、民衆は全く無関心です。世論を背景にしないその党が、どうして結束できるでしょうか。」(『史記』文帝紀2)

だが代王は招きに応じて文帝となるのだが、ここでの「党」は言わば一時的な目的のための機動部隊で、常設となり利権を牛耳る後世の党派ではない。後漢になって党人と宦官が利権争いの果てに、互いに殺し合う「党錮の禁」が起こったのは、高校教科書にも載っている。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/400.html



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