本日の改訂から

論語の本章に関して、古注はいつも通り本文の内容をアホウのように繰り返しているばかりで、全く読む意味が無い。新注に至ってはどういうわけか、何一つ注釈を加えていない。朱子は自分が口先男だという、自覚でもあったのだろうか。

対して明末清初の儒者・ギョウ(季二曲)は、こういうことを書いている。

不以言舉人、則徒言者不得倖進。不以人廢言、庶言路不至壅塞、此致治之機也。以言舉人則人皆尚言、以行舉人則皆尚行、上之所好、下卽成俗、感應之機、捷於影響、風俗之淳漓、世道之升沈係之矣。三代舉人一本於德、兩漢舉人意猶近古、自隋季好文、始專以言辭舉人、相沿不改、遂成定制。雖其閒不無道德經濟之彦、隨時表見、若以爲制之盡善、則未也、是在圖治者隨時調停焉。

李顒
言っていることで人を推薦しなければ、無駄口を叩く者が偶然の昇進を掴むことがなくなり、言った人を理由に言葉を捨てなければ、皆が口をつぐんでしなうようなことがなくなる。これが政治の機微というものだ。

言っている事で人を推薦すると、人は皆言葉を慎むが、行動で人を推薦すれば、人は行動を慎むようになる。そうすれば為政者の思いのままが、すぐさま下々の風俗となるだろう。そのからくりは、速やかに世間に作用して、人情の善悪、世情の浮沈は、ひとえにこの選択に掛かっている。

だから夏・殷・周の三代では、役人の採用は人徳の有る無しで決め、前後の漢は、やはりそれに近いやり方で取った。ところが隋の末年から文章で試験するようになり、書いた言葉だけで採用の当否を決めるようになった。これが代々受け継がれて、とうとう中国の常識になってしまった。

もちろんそうして採用された役人にも、品格や世間の救済にすぐれた人物は出た。この制度は本来、そうした優れた人材を採ることにあり、常にそうした人材を選び続けようとしても、まだ達成されたことがない。つまり上に英主を頂き、よき人材を採ろうとする作為が無ければ、なんともならないのだ。(『四書反身録』巻三)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/401.html

「己所不欲、勿施於人」は同じ事を子貢が論語公冶長篇11で述べているが、そこでは子貢おとしめ話になっている。

子貢「人にされたくないことを人にしたくない。」
孔子「子貢よ、それはお前には出過ぎた望みだぞ。」

論語の本章でこの通り教えておきながら、子貢がそのように言うとたしなめた、とあるのが事実なら、孔子は相当に性格が悪いバカ教師であることになる。従って本章か公冶長篇かどちらかが、後世のでっち上げという事になるが、上掲の通り文字史的には本章が怪しい。

だが公冶長篇も「也」を断定で用いている可能性があり、その意味では全き孔子の発言と断じることは出来ない。それでも本章が孔子の発言である可能性はほぼ皆無で、論語の本章は戦国末期になって儒家が作り上げた新しい恕という概念を、ニセ孔子によって権威づけたもの。

孔子没後にほとんど滅びていた儒家を再興したのは、一世紀後の孟子だが、現伝『孟子』でも「如」が用いられた箇所は一箇所しか無い。

孟子曰:「萬物皆備於我矣。反身而誠,樂莫大焉。強恕而行,求仁莫近焉。」

孟子
孟子が申しました。「全てのものがこの身に備わっている。自分自身を反省して誠実を尽くせば、人生を大いに楽しめる。出来る限り人を思いやるよう努めるなら、仁=常時無差別の愛を実現するのに、これほど適した道は無い。」(『孟子』盡心上4)

自説を常にしゃべっていないと死んでしまいそうな孟子が、仮に「恕」の発明者だったら、もっとベラベラと説教するはずで、たった一文字しかないというのは、孟子の発明でないことを示しているだろう。この点荀子も同様に、一箇所しか言及がない。

孔子曰:「君子有三恕:有君不能事,有臣而求其使,非恕也;有親不能報,有子而求其孝,非恕也;有兄不能敬,有弟而求其聽令,非恕也。士明於此三恕,則可以端身矣。」

荀子 ニセ孔子
孔子「君子は三種類の”恕”を身につけねばならぬ。とうてい仕えられないバカ殿が、”ワシに仕えよ”と求めるのは、恕ではない。恩返しする気にもならないバカ親がいて、子供に”孝行しろ”と求めるのは、恕ではない。尊敬する気にもならないバカ兄がいて、”俺の言う通りにしろ”と弟に言うのは、恕ではない。君子たる者この三つをわきまえて、やっと身持ちをすがすがしく出来るのだ。」(『荀子』法行7)

孔子に言わせた時点でもうニセなのだが、このニセは荀子が言い出したことなのだろうか。荀子は孟子と違って、自説をわあわああと言い回るような男ではなかった。大国斉の筆頭家老を数度にわたって務め、学士院の親分であり続けた荀子は、孟子ほど意地汚くないからだ。

だから儒家における「恕」の発明は荀子だと言ってよかろうが、論語の本章で説くような、相手の身になって思いやる、ということではなさそうだ。上掲の言葉はどう読んでも、「お互い様」の精神を言っているだけであり、頼まれもせぬのに思いやれ、とは言っていない。

すると本章は、恐らく前漢の儒者による創作で、『礼記』『説苑』はじめ、前漢儒者の書き物には、盛んに「恕」が出てくるし、論語の本章のような好意の押しつけとして記されている。戦国末期に「お互い様」として登場した「恕」は、かくして儒家のスローガンとなった。

康煕帝
清の康煕帝と言えば、満洲人王朝だった清を儒教化しようとせっせと働いた皇帝だが、その御代に焦袁熹という、隠れた賢者がいたらしい。もちろん政治ショーの結果で賢者とされたのであり、民間の賢者を召し出して重用すると、清朝に対する世間の評判が上がるからである。

その「賢者」の書いた文に、康煕帝自ら題を付けてやった。そこにこう記されている。

聖賢學問無不從人己相接處做工夫既有此身決無與人不交闗之理自家而國而天下何處無人何處不當行之以恕

論語 清儒
聖賢の学問というものは、すべて人と人とのつながりの中で効果をあらわすものであり、すでに自分がこの世に生きているからには、人と関わらずに生きていくことなど決して出来ない。自分の家族から始まり、国や世界に至るまで、どの人に対しても、恕の精神で付き合うほかにないではないか。(『御製題此木軒四書説』巻六128)

古今東西変わりなく、一歩外を歩けばバカあほ𠮷外・欲タカリが横行している人間界で、「どの人に対しても、恕の精神」とは偽善極まる。所詮は「あいつら野蛮人だ」「中国を盗み取った」と言われるのが嫌でしょうがない清朝の、人民クルクルパー政策の一環である。

現代の論語業者に、「恕」をもっともらしく説く者がいるが、そのマヌケはかくのごとし。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/402.html

論語の本章は、孔子の発言の前半と後半のつながりがよく分からないというので、『論語集釋』にうんざりするほどの長文で儒者が書き付けたあれこれを記している。だが本章が偽作であることは明らかで、史実の孔子の発言としたそれらの考察は全て価値が無い。

本章は、定州竹簡論語にあることから、前漢宣帝期までに成立していたと分かるが、誰の作文かとなると手がかりが無い。文意が分かりにくいことから、あるいは『漢書』芸文志が記す、孔子にまつわる「伝」から適当に切り出して、董仲舒あたりが論語にねじ込んだと思われる。

論語 董仲舒 論語 前漢武帝
董仲舒の行ったことと言えば、親政を始めた希代の暴君・武帝の、幼少期のトラウマに付け込んで儒者の権益拡大を図ったことであり、顔淵神格化など数多くのでっち上げを行った。ろくでもない治世の大型詐欺師と言うべきで、論語の水増しのためには、少々の文意不通など気に掛けなかった。分からない方が、儒者に解釈権が独占されて都合がいいからである。

もっとも論語は、時代が下った明帝国になるまでは、儒教の副読本の地位だった。だからこそ論語を水増しすると同時に、公認テキストである『礼記』をさかんに捏造した。こうした事情をわきまえずに論語や儒教経典を読む限り、何が書いてあるかは金輪際分からない。
論語 歴代王朝と孔子

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/403.html

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