本日の改訂から(2)

現伝の儒教が親孝行をうるさく言い出したのは、信じがたい偽善がはびこった後漢の時代で、親孝行そのものを言い出したのも、孔子没後345年の前漢元光元年(BC134)。

論語 前漢武帝
当時の皇帝・武帝は、気分次第で家臣を殺す希代の暴君だったが、幼少期に道家マニアの祖母を始め、一族の女からいじられたというトラウマから、親政を始めると単に道家を嫌うために、儒家を持ち上げた。この偶然がなかったら、中国に儒教が根付くことはあり得なかった。

論語 董仲舒
それに付け込んだのが儒者の董仲舒で、機会を逃すものかとばかり武帝に取り入りヘンな教えを吹き込んで、年に一人各地方から、儒教的に孝行な者を役人に取り立てさせた。だがそれでも年に一人であり、当時の役人の採用は、高官など既存の役人による推薦が主流だった。

光武帝
これが後漢になると様子が変わる。創業皇帝の光武帝は、その度を外れた偽善から、「役人には人格者を採れ」と言ったらしい。結果官界は偽善を事とする馬鹿者だらけになり、仕事をする代わりにせっせとワイロを取り始めた。当然行政の停滞を招き、時の章帝は頭を抱えた。

夫鄉舉里選,必累功勞。今刺史、守相不明真偽,茂才、孝廉歲以百數,既非能顯,而當授之政事,甚無謂也。

章帝
今後役人の採用は、仕事の実績がある者に限る。こんにち、各地の長官はいかがわしい者ばかり推薦するし、孝行者や寡欲者を装って役人になる者は、年に百人に及ぶが、別にこれと言って才能も無く、仕事をさせてみるとデタラメばかりで、どう評したものか言葉に悩むほどだ。(『後漢書』章帝紀14)

章帝は後漢最後のまともな皇帝で、その死後は外戚・宦官・ワイロ取りの儒者官僚が三つ巴になって社会を食い荒らした(→後漢というふざけた帝国)。儒教的孝行の強調は、ひとえに役人になるための手段で、それも本物ではなく孝行者という名目を取る事だけが目指された。

靈獻之世,閹官用事,群奸秉權,危害忠良。臺閣失選用於上,州郡輕貢舉於下。夫選用失於上,則牧守非其人矣;貢舉輕於下,則秀孝不得賢矣。故時人語曰:「舉秀才,不知書;察孝廉,父別居。寒素清白濁如泥,高第良將怯如雞。」

葛洪
後漢の霊帝から献帝にかけて、宦官が政治権力を独占し、それに乗じた悪党どもが政権を奪い合い、まじめな人間ほど刑殺の憂き目に遭った。高官が推薦する役人候補はろくでなしで、地方長官はまじめな推薦をしなくなった。採用がデタラメだから、やがて地方長官がろくでなしばかりになり、地方長官が不真面目だから、採用がデタラメになったのである。

だから当時の人は言った。「もの知りという事で役人に採ったら、なんと文盲だった。孝行者で無欲だからと役人に採ったら。老いた父親を放置して死ぬに任せていた。道徳を売り出して役人になった者はワイロ取りばかりで、試験で選んだはずの文武官は、ニワトリみたいにうろたえるばかりだ。」(『抱朴子』審挙7)

孔子は親孝行など、説きはしなかったのだ。戦国時代までの儒家も、孝行とは相互依存・相互補完関係であり、一方的・奴隷的奉仕など説かなかった。

孔子曰:「君子有三恕:…有親不能報,有子而求其孝,非恕也。」

荀子 ニセ孔子
孔子が言ったという。「君子は三つの”恕”を身につけなくてはいかん。…ろくでもない親が子供をいじめておいて、孝行しろと言うのなら、それは”恕”ではあり得ない。」(『荀子』法行7)

論語の時代に無い「恕」を用いていることから(→語釈)、これを孔子が言ったというのはウソだが、同文を前漢初期に成立した『孔子家語』も載せており、前漢までは儒者さえも、一方的親孝行を説かなかったことが分かる。全ては後漢儒者の、就職のための出任せなのだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/gakuji/011.html

嗇夫孫性私賦民錢,市衣以進其父,父得而怒曰:「有君如是,何忍欺之!」促歸伏罪。性慚懼,詣閤持衣自首。祐屏左右問其故,性具談父言。祐曰:「掾以親故,受污穢之名,所謂『觀過斯知人矣』。」使歸謝其父,還以衣遺之。

後漢書 丁鴻伝
村役人の孫性という者が、勝手に庶民から銭を取り立て、上着屋から上着を奪い取って父親に進呈した。ところが父親、「立派な知事様の下役でありながら、お前は何という事を仕出かしたのだ! さっさと自首せい。この愚か者!」

孫性は震え上がって、奪い取った上着を持って、おそるおそる知事の官舎に出向いて自首した。知事の呉裕がまわりについたてを巡らしてやると、孫性は父の言う通りを伝えた。

呉裕「あらぬ稼ぎをしたのは親のため、あえて汚名を着ようとしたのだな。論語に”間違いのやりかたで人が分かる”(論語里仁篇7)というのはこのことだ。」そのまま無罪放免として家に帰し、奪い取った上着もそのまま持たせてやった。(『後漢書』呉裕伝3)

『後漢書』は呉裕を「立派な知事」として描いており、それは当時の価値観を示す。だが小役人が権力をかさに、庶民から奪い取った銭も上着も、元の持ち主に返させていないし、謝らせもしていない。これが後漢時代の「善政」だ。善悪の基準は役人の都合でしかない。

そもそも呉裕は、「無欲な孝行者」との名目で役人に取り立てられた。それを当人は心得ていたらしく、かかる偽善を繰り返して評判を積み重ねた。皇帝の軍事顧問で悪名高い梁冀から、乞われて参謀長に就任したのも、梁冀の人気取りのためだった。そして98の長寿を全うした。

この偽善ごっこに頭を抱えた、少し前の章帝は言った。

朕以無德,奉承大業,夙夜慄慄,不敢荒寧。而災異仍見,與政相應。朕既不明,涉道日寡;又選舉乖實,俗吏傷人,官職秏亂,刑罰不中,可不憂與!

…夫鄉舉里選,必累功勞。今刺史、守相不明真偽,茂才、孝廉歲以百數,既非能顯,而當授之政事,甚無謂也。

章帝
ワシは無能にかかわらず、皇帝という重職を背負い、日夜「これでいいのか」とビクビクしておる。ちょっとでも突つけば破裂する腫れ物を気遣うように、毎日生きておるのだ。それにも関わらず今の世は、災害が頻発し、政界もまた荒れ果てている。これも朕がだらしないからで、修行が足りんからだと白状する。

とりわけ心配なのは、役人の採用で、賢く有能で善良な者を採るはずが、全然そうでない者ばかりが採用される。役人どもは仕事に励まず、ワイロを取るなど庶民をいじめ、官職は目的を果たさず、刑事裁判もデタラメだ。朕はほとほと悩んでおるのだ!

https://hayaron.kyukyodo.work/kaisetu/kyoutou_oroka.html#dqn



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