本日の改訂から

孔子の生前、「仁」とは徹頭徹尾、貴族に成り上がるために備えるべき技能と教養、心のありようのことで、庶民には全く関わりの無い事柄だった。それを何だか有りがたいもののように触れ回って諸侯から官職をせびったのが、上記の孟子である。

これは、「仁」とは何か、社会のありようが変わってゆらぎ、人々に理解されがたくなった事の反映でもある。(クロスボウ)の実用化に伴って戦争のやり方が変わり、貴族の操る戦車の一騎打ちから、徴兵された庶民の歩兵隊による集団戦へと変わったことがその根柢にある。

論語 弩 戦車戦
孔子の生前、貴族とはもれなく戦士であり、都市の商工民といえども戦時に出陣の義務がある代わりに、新国公の承認など参政権を持った。古代の貴族とは必ずしも金持ちではなく、古代市民を含めた参政権がある者を言うが、洋の東西を問わず坊主でなければ戦士である。

孔子の晩年まで軍の主力だった戦車だが、気難しい馬を複数頭、揃って走らせるには長年の習練が要り、サスペンションも無い車上で長柄武器を扱うにも、弓を射るにも長年の習練が要った。ただし御者は馬車に慣れた商工民でも務まったが、戦闘員はそれ以上の稽古が要る。

つまり労働の必要が無い、領主貴族の仕事だった。ところが孔子の晩年、戦闘技能の無い庶民を大量に徴兵し、弩を渡して集団で射させるようになった。弓には腕力も技能も要るが、クロスボウなら比較的腕力の無い素人でも当たる。それを一斉に射かけるのだからたまらない。

論語 弩
弩は弓よりバネを強く作れる。それは弦を一度だけ引いて引き金に掛ける構造だからで、一度踏ん張れば発射準備が済んだ。目当ても付いているから、引き絞った腕を震わせることなく、落ち着いて的を狙える。だから速射が利かない代わりに、威力と命中率に優れる(→動画)。

だから機関銃に向かって突撃する騎兵に似て、旧来の玄人軍団が素人集団にタコ殴られるようになった。孔子の晩年、魯を攻めた軍事大国・呉の軍隊は、魯の歩兵隊が本陣に襲来すると聞いて逃げ回っている。貴族の技能=仁が価値を失い、特権を世間に説明する根拠が消えた。

さらに孔子から一世紀後の孟子の時代、仁とは忘れられた言葉になった。それゆえ孟子が拾い上げて「仁義」に書き換え、何だか有り難いような言葉に仕立て上げた。はっきり定義の出来ない言葉だが、それは孟子が買い手の諸侯に合わせて、コロコロと意味を変えたからである。

要するにキャッチコピーで、それでも何とか最大公約数を取ると”情け”や”憐れみ”のような意味となる。政治から収奪される庶民が、お上の情けや憐れみを「水火よりも甚だしく求める」のは当然だろう。だがそれゆえに、論語の本章は孟子以降の、全くの捏造と断じうる。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/413.html

論語の本章は前章と同じく、孔子の説いた「仁」を「仁義」だと言い張りたい、孟子かその系統を引くおそらくは漢帝国の儒者が、勝手に孔子に語らせたでっち上げ。本章の「仁」がもし孔子の肉声なら、その意味は”貴族らしさ”であり、下記の通り教説に矛盾が出る。

本章を史実とした場合

論語 孔子 キメ
それが仁=立派な貴族にふさわしいという確信があるなら、私がどう言おうと従わずに貫け。

このように”ワシの言うとおりにするな”と説教しておきながら、弟子の子路が衛国は蒲邑の領主だった時、自分の俸禄をはたいて労役に駆り出された民に給食を出したら、礼法破りだと言って止めさせた、という伝説が『韓非子』やそのコピペ『孔子家語』に収録されている。

子貢 論語 子路 怒り
子路は治水工事の先頭に立って働いた。そして動員した民には弁当を支給した。ところがそれを聞いた孔子は、子貢を呼んで「弁当屋を叩き壊してこい」と命じた。面白がって子貢が叩き壊すと、子路が真っ赤になって孔子宅に飛び込んできた。「何をなさるのです!」(『孔子家語』致思第八)

論語 孔子 説教 子路
ところが孔子は「民は殿様の領民で、お前ごときが可愛がってはならない」と子路を叱った。これはまるまるのでっちあげか、そうでなくとも孔子の言うことに理が通らない。『史記』によれば子路は蒲邑大夫=領主であり、宰=代官ではないからだ。

子路為蒲大夫,辭孔子。孔子曰:「蒲多壯士,又難治。然吾語汝:恭以敬,可以執勇;寬以正,可以比眾;恭正以靜,可以報上。」

論語 子路 喜び 孔子
子路が蒲邑の領主に任じられた。赴任にあたって孔子に別れを告げた。孔子が言った。「蒲は血の気の多い連中がうようよしており、まことに治めにくい。だから統治のコツを教えてやろう。本気で敬うつもりで腰を低くしろ。そうすれば乱暴者どももおとなしくなる。正義に叶った寛容さを持て。そうすれば仲間だと思って貰える。目立たぬように礼儀正しくしろ。そうすれば殿様の受けも良い。」(『史記』仲尼弟子列伝28)

代官は殿様の代理人に過ぎないから、住民を私物化しては反乱の始まりだ。だが領主にとっての領民は私物に他ならず、殿様が領民をいたわるのと変わらない。おそらく戦国時代になってもう大夫と宰の違いが分からなくなり、儒者が勝手なラノベをこしらえたに過ぎない。

その発端は世間師孟子であり、ラノベの創作は少なくとも南北朝時代までは続いた。こうした儒者が現伝の論語に書き加えたデタラメによって、孔子は時と場合により言うことがまるで違う、信用と油断のならない人物のように読み取れる。孔子が得意とした法の扱いもその一例。

晋国が法を公開した時、孔子は口を極めてののしったが(『左伝』)、同じく法を公開した鄭の子産を、口を極めて褒めちぎった(論語公冶長篇15)。仁や礼についても同様で、同じ論語の中ですら章が違えば、孔子は全く別のことを言う。ニセの言葉をいくつも語らされたからだ。

これは洋の東西を問わぬ人類の普遍現象で、西洋のあちこちにゼウスの末裔を称する連中がいたり、日本中に空海の杖突き井戸があるのと同じ。しかも権力が全てに優先する中国では、論理的思考は育ちようが無かった。権力者が1+1=12と言えば、それが通って仕舞うのである。

つまり𠮷外の言うことを真に受けなければ、中国のインテリは出世できないし、本当の事を言うと生き首や、司馬遷のようにナニをちょん切られる。これは現代日本の銀行員が、人と自分のカネの分別を付けていると、出世できず早々にリストラを喰らうのとよく似ている。

だから中国人はインテリだろうと、抽象的思考や客観性の確保が出来ない。しても役立たなかったし、現世利益の飽くなき追求が、そうした機能を眠らせてしまったのだろう。これは論語の時代から現在まで変わらないから、哀れなほどに、中国人の数理的理解の中央値は低い。

ところが中国の恐ろしいところは、最高値は他の文明圏と変わらないことだ。何せ人口が多いからだ。中国人はゼロは発見できなかったが、位取り表記は文字の出現と同時に発明した。地動説は発見できなかったが、論語の時代にすでに1年が365+1/4日だと分かっていた。

このすごさを理解するには、例えば分度器を自作してみるとよい。

中国数学史 分度器
古代中国には全天を365+1/4度に分けて観測できる、数学と観測機器とその製作技術が揃っていた。唐の時代、インドの高等数字と天文学(九執曆)が中国に入ってきたが、高慢ちき極まる宋儒が編んだ『新唐書』では、徹底的にこき下ろして済ませた(銭宝琮『中国数学史』)。

九執曆者,出于西域。開元六年,詔太史監瞿曇悉達譯之。…其算皆以字書,不用籌策。其術繁碎,或幸而中,不可以為法。名數詭異,初莫之辨也。陳玄景等持以惑當時,謂一行寫其術未盡,妄矣。

論語 欧陽脩
(編者・欧陽修)

九執曆は、西域から伝来した。玄宗の開元六年(718)、インド系の瞿曇悉達が記録庁長官に任じられ、勅命によってこの暦が翻訳された。

…しかしその計算は全て筆算で、全く算盤を使わない。だから覚えにくいことこの上なく、たまたま日食やうるう年を当てることは出来るだろうが、とても暦としては使いものにならない。暦に用いるさまざまな定数も珍妙極まりなく、幼児のタワゴトそっくりだ。

暦官の陳玄景らはそれを理由に、世間を惑わす世迷い言だと断じた。いわく、「原文にたった一行の記述でも、何が書いてあるかさっぱり分からない。つまりこれはインチキだ。」(『新唐書』暦志2)

現代日本では中等数学が出来ない者は国立大学にれないことになっており、訳者のような私立文系バカは自分のバカに恥じ入るしかないが、中国の文系バカはインドの天文書ばかりか、数学書『開元占経』でもインド数字の部分は伏せ字にした。『中国数学史』は言う。

中国数学史
汚らわしいとでも思ったのだろうか

『新唐書』が編まれた宋儒の時代、儒者の高慢ちきは後漢とは違った最高潮だった時代でもある。後漢は偽善とごますりの時代だが、宋代は中国なりの合理主義が芽生えた時代でもある。しかしその合理主義はあっという間に黒魔術化して、迷信同然になった。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/414.html

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