本日の改訂から

學易→學亦

論語の本章では”よく学ぶ”。辞書的には論語語釈「学」論語語釈「易」論語語釈「亦」を参照。

前漢宣帝期の定州竹簡論語には「学亦」とあり、古注に「易窮理盡性以至於命」”易は宇宙のことわりを明らかにし、ものごとの性質を見極め、それらによって天命を伺い知る”とあることから、おそらくは後漢の時代に何者かが、勝手に「亦」zi̯ăk(入)を「易」di̯ĕk(入)に書き換えたと思われる。その意図は易の権威付けのためであり、世間師として易を売り出した儒者が儲けるためである。

荀子
儒教に易を持ち込んだのは戦国末期の荀子であることは定説となっている。孔子の生前、易の字に”占い”の語義は無く、亀の甲や動物の骨をあぶる占いは甲骨文の昔から存在したが、筮竹のたぐいを操っての占いは、論語の時代に存在したという証拠が無い。

また孔子は論語衛霊公篇37で、はっきりと占いを否定している。

いはく、君子くんしうらなひてうべなはざれ。

論語 孔子 キメ
諸君は貴族を目指すのだから、迷信に惑わされてはならない。天命を占ったところで、信じるに足りる理由は何もない。

現伝「周易」の基本思想である陰陽の概念は、孔子没後170年ごろの戦国時代に生まれた鄒衍からしか確認できず、『史記』が易による占いを周の昔に遡らせているのはほぼ妄想。

自古受命而王,王者之興何嘗不以卜筮決於天命哉!其於周尤甚,及秦可見。代王之入,任於卜者。太卜之起,由漢興而有。

論語 司馬遷 論語 史記
古来より天の命令で王が決まり、王者が勢いづくのは易によって天命を知ったからに他ならない。易の占いは周の時代にもっとも盛んとなり、秦代にも見られた。やがて王者に代わって天命をうかがい知るために、卜者(宮廷易者)を任命するようになった。その長官である太卜を置いたのは、漢帝国の始めからになる。(『史記』日者列伝)

「太卜」の名は『呂氏春秋』にも見えるから、『史記』よりも遡ることにはなるが、孔子の時代にまでは至らない。いずれにせよ論語の時代に占いの易は存在しない。

論語 武内義雄 武内義雄 論語
なお武内本には「釋文云、魯論は易を読みて亦とす、蓋し易は亦と同音のため仮借せられたるもの」とあり、いわゆる占いの「易」だとは、必ずしも解されなかったという。

ただし易と亦が同音というのは、カールグレン上古音がすでに発表されていたゆえに、戦前だろうと誤りで、上掲の通り「亦」zi̯ăk(入)と「易」di̯ĕk(入)で近音ではありえても、同音ではない。「爺い」と「DD」、「歯」と「屁」を聞き間違えるだろうか。なお◌̯は音節副音(弱い音)を、ˇ(ハーチェク)は極短音を、入声はつまった音を意味する。


論語八佾篇の一連の章から明らかになるように、孔子は古代人らしからぬ合理主義者で、神も占いも信じなかった(→孔子はなぜ偉大なのか)。

いはく、ていすでそそのちわれこれることをほつさざるなり

論語 孔子 せせら笑い
禘の祭りでは酒を撒き、それでご先祖様のたましいを呼び申す、ことになっておる。たましいが降りてきた振りした神官どもの、偽善めいた振る舞いは、アホらしくて見るに堪えない。(論語八佾篇10)

またおそらくは本章を易の宣伝に書き換えた儒者の出た後漢の時代は、オカルトや偽善がまかり通ったとんでもない時代でもある(→後漢というふざけた帝国)。訳者としてはこのようなデタラメの下手人を突き止めたい所ではあるが、今のところ「こいつだ」という確信が無い。

なにせ易の字は”占い”とともに、”変更する”というありふれた動詞でも使われる漢字であり、漢籍から検索して引っかかった膨大な易の字を、一々解読していては寿命が尽きてしまう。また下手人が前漢の儒者である可能性も、否定できる根拠を持たず、ただの勘でしかない。

話はこれでおしまいだが、上掲『史記』日者列伝の続きが面白いので訳しておく。

司馬季主者,楚人也。卜於長安東市。

宋忠為中大夫,賈誼為博士,同日俱出洗沐,相從論議,誦易先王聖人之道術,究遍人情,相視而嘆。賈誼曰:「吾聞古之聖人,不居朝廷,必在卜醫之中。今吾已見三公九卿朝士大夫,皆可知矣。試之卜數中以觀采。」二人即同輿而之市,游於卜肆中。天新雨,道少人,司馬季主閒坐,弟子三四人侍,方辯天地之道,日月之運,陰陽吉凶之本。二大夫再拜謁。司馬季主視其狀貌,如類有知者,即禮之,使弟子延之坐。坐定,司馬季主復理前語,分別天地之終始,日月星辰之紀,差次仁義之際,列吉凶之符,語數千言,莫不順理。

論語 史記
前漢帝国が天下を平定すると、南方の楚に生まれた易者の司馬季主は、都の長安に出て市場に占いの店を出した。

そのころ、中大夫(政務議官)に任じられた宋忠と、博士(学術顧問官)に任じられた賈誼(『新書』の著者)が、連れだって銭湯に出掛ける道すがら、易について語り合った。易はまことに先王・聖人が生み出した素晴らしい技術であり、あらゆる人の思いを推し量れるわざであると思うと、互いに「すごいすごい」と讃え合うのだった。

賈誼「私の知る限り、いにしえの聖人は朝廷に仕えるのでないなら、易者や医者を開業していた。そこで今の閣僚や高官を見回すと、大した能のある者はいない。だから聖人に出会いたければ、いちまちの易者から探すしかない。」

そこで二人は、同乗した車を市場に向けさせ、占い師が店を連ねる一角に入った。その時雨が降り出して人出はまばらで、司馬季主の店は暇だったので、弟子に占いの講義を行っていた。それがいかにも詳しかったので、宋忠と賈誼の二人は聖人かもしれんと二度拝んで店に入った。

司馬季主は二人がいかにも賢そうな顔をしているので、恭しくお辞儀したあと、弟子に敷物を敷かせて迎え入れた。二人が腰を下ろすと、司馬季主はさらに易の講釈を詳しく始め、長々と数千語にまで至ったが、どれももっともなことわりで矛盾が無い。

(以下訳出中)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/jutuji/163.html

書き下し

いはく、君子くんしうらなひてうべなはざれ。

意訳

論語 孔子 キメ
諸君は貴族を目指すのであるから、迷信に惑わされてはならない。天命を占ったところで、信じるに足りる理由は何もない。


論語の本章は短いだけに、文意が取りにくい。これまで儒者や漢学教授が、それぞれに想像を膨らませて解釈したが、どれもオトツイの方角へ向かっている。

古注『論語集解義疏』

註孔安國曰貞正也諒信也君子之人正其道耳言不必有信也

孔安国
孔安国「貞とは正しいことだ。諒とは信じることだ。君子たる者、ひたすら行動を正すべきで、人に信頼されるかどうかは必ずしも必要でない、と書いてある。」

新注『論語集注』
貞,正而固也。諒,則不擇是非而必於信。


貞とは、正しい上に意志強固なことだ。諒とは、つまりその場の都合に合わせるのではなく、信念に基づいて行動する事だ。

漢学教授の解釈は、バカバカしいから一々記さないが、だいたいこれらと同じか、上掲従来訳の範疇にある。孔子が天命を重んじる頭の古くさいオカルト者だと思っている限り、論語に何が書いてあるかは決して分からない。すでに論語八佾篇の一連の章で、そのことを示した。

まつるにいますがごとくし、かみまつるにかみいますがごとくせり。いはく、われあづからず。まつりてまつらざるがごとければなり。

(従来訳)
論語 孔子 へつらい
先師は、祖先を祭る時には、祖先をまのあたりに見るような、また、神を祭る時には、神をまのあたりに見るようなご様子で祭られた。そしていつもいわれた。――
「私は自分みずから祭を行わないと、祭ったという気がしない。」

(拙訳)
論語 孔子 居直り
お供えの時には、祖先や神様がおわすと思ってお供えしていた。それを見た先生が言った。
「ワシはやらん。バカげとる。誰もおりゃあせんぞ。」(論語八佾篇12)

これ以外の例は「孔子はなぜ偉大なのか」を参照。孔子は古代人にもかかわらず、その目に神が見える人ではなかったのだ。加えて本章では、定州竹簡論語によって「諒」→「梁」だったことが明らかとなり、上掲古注と同じく「信」の意味。ただし”信頼”ではない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/post-12448.html

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