本日の改訂から

なお清帝国最盛期を生きた儒者・銭大昕は、論語の本章の解釈に関して、次のような異説を唱えている。『論語集釋』での引用文の、訳のみ記す。

銭大昕
夏・殷・周王朝の時代、諸侯は互い同士の外交をことのほか重んじた。論語では、「殿様の命令を受けて使者に出向き、その通りに交渉を妥結して帰る」(論語子路篇20)ことを褒め讃えたが、「使いに出て、専対(=自分の裁量で交渉)できない」(論語子路篇5)のはけなしている。

だから本章の「辞」というのはただのことばではなく、自分の裁量で当意即妙にこちらの言い分を通す弁舌のことに違いない。だから『春秋公羊伝』に、「家老は使いに出るとき、殿様の命令は聞いて出るが、”辞”(=どうやって言いくるめるか)は受けない」と書いてある。一方『儀礼』聘礼記にはこうある。

「”辞”には決まった言い方がないものだが、控えめに説く事には違いない。口数が多いと本当に何を言いたいのかがぼやけてしまい、かといって少ないと言いたい事も伝わらない。”辞”がもし不足せず意志も通じたなら、それはもうご立派と言ってよろしい。」

だから論語の言葉と『儀礼』の記述とは、裏表一体の関係にあり、儒教経典の助けを借りて、たの経典の意味が分かる一例である。それでやっと、「辞は達する」の本当の意味が分かるのだ。(『潜研堂答問』)

現代の論語読者として言えるのは、「じいちゃんよく漢籍読んでるね」の一言だけであり、「…のことに違いない」と勝手な独断を敢行するにあたって、何一つ証拠を挙げていない。似たような記述があるからと言って、どうしてそれらが「裏表一体の関係」になるのか。

ウコンとウンコは音も色も形も似ているが、同じであると言い出したら世の中大変だ。太古から現代に至るまでの中国人の論理能力のお粗末さは、こうした所にも現れている。どんな大学者だろうとも、その場で利益になることを、その場の出任せで言っているだけだ。

漢籍とはその集大成。道徳じみた読み方をするのは、バカバカしいと思いませんか?

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/eireikou/419.html



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