本日の改訂から

後世のでっち上げを除き、論語では「道」を、一切道徳的な意味で使っていない。詳細は論語語釈「道」を参照。

道は”やり方・方法”であり、それらが無い無軌道な状態を「無道」と呼んだ。論語の時代の政治は無道であり、国際関係では大国が小国を滅ぼしたばかりか、前章のように魯国もそれをやった。有為転変激しい人界を相手にするからには、もともと政治に道など無いからである。

論語の本章に話を戻せば、政治にありもしない「道」を説いたことで、図らずも本章が漢帝国の儒者によるでっち上げであることを裏書きしている。なるほど帝政期なら、帝権の言うがままに政治を行うのが常「道」になろう。しかし孔子の生きた春秋時代は乱世。

儒者が脳天気に「道」など説けるような時代では無かったのだ。


論語の本章は、前漢の儒者が自派の地位を帝国内に確立するため、一生懸命皇帝にゴマをすってでっち上げた作文。天子=漢の皇帝にひたすら従えと言っているだけで、内容的価値のあることを何一つ言っていない。だが無から有をでっち上げるのが儒者というものである。

清儒・劉逢禄は言う。

齊自僖公小霸桓公合諸候歷孝昭懿惠頃靈莊景凡十世而陳氏專國晉自獻公啟疆歷惠懷文而代齊霸襄靈成景厲悼平昭頃而公族復為強臣所減凡十世魯自隱公僭禮樂減極至昭公出奔凡十世

論語 清儒
斉は僖公の時に勃興し、桓公の時に天下の覇者となり、そののち孝・昭・懿・恵・頃・霊・荘・景公が継いで合計十世、そこで陳氏に権力を奪われた。晋は献公の時に強大化し始め、恵・懐・文公と継いで斉に代わって覇者となり、襄・霊・成・景・厲・悼・平・昭・頃公と継いで、有力家臣に滅ぼされたが、栄えたのは合計十世である。魯は隠公から礼楽を勝手に臣下が行い始めてほとんど滅んだが、昭公が国を追われるまで合計十世である。(『論語述何』)

あたかも十世で滅ぶのが摂理であるかのように言っているが、どの殿様から計算を始めるかを勝手に決めており、要するにコジツケ。論語の本章と合わせ、まじめに読む価値も無い。

また論語の本章は、「陪」の字の文字史より、前漢より前には遡れず、遅くとも定州竹簡論語の記された前漢宣帝より後には下らない。つまり前漢初期に作られたと見るのが妥当だが、帝国を揺るがす反乱だった呉楚七国の乱(BC154)の前か後かで意義が変わる。

反乱のきっかけは、皇太子時代の景帝が、双六のいさかいから親戚の呉国世子を双六盤で殴り殺し、皇太子ゆえにおとがめ無しになったことで(BC165)、一旦引き下がった呉国は恨みをくすぶらせた挙げ句、景帝の代になって同様の立場にあった諸侯国と共に反乱を起こした。

それが失敗に終わったことで、前漢帝国の中央集権化が完了するのだが、それまでは諸侯国は事実上の独立国であり、「礼楽征伐」が「天子」から出ていなかった。もとよりこの状態は皇帝にとって不愉快であり、儒者がその気分に付け込んで儒教を売り込んでも不思議は無い。

仮に論語の本章が作られたのが乱の後だとすると一層愚劣で、単に皇帝に対するお追従を、ベラベラと繰り返し書き連ねたことになる。修辞的にも次章の五・四・三の真似をして、もっともらしくねじ込んだ、いかにも役人が好みそうな定型文。退屈極まりない下手くそと言える。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kisi/422.html

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