本日の改訂から

論語の本章は、孔子が言ってもおかしくない話で、問題点は「也」の用法のみ。隋による中国統一(589)ごろ成立の『顔氏家訓』では、也の字が落ちている。

且又聞之生而知之者上學而知之者次所以學者欲其多智明達耳

顔之推
また次のようにも聞いている。生まれながらに智恵のある者は上等で、学んで智恵を得る者は次ぐ、と。だから学問をする者はひたすらに、智恵が多く明らかな判断力を求めるのだ。(『顔氏家訓』巻上17)

言うまでも無いことだが、『顔氏家訓』は定州竹簡論語の成立した前漢宣帝期(BC74-BC49)よりはるか後の本であり、それを理由に論語の本章の也を省けるわけではない。ただしこのような異文もあった、と指摘できるに止まる。


さて漢語で生まれつきの精神を「性」という。心を意味するりっしんべんと、生の会意文字で、語義はこれ以上でも以下でもない。要は食欲性欲睡眠欲のことだ。だがこれにおかしなオカルトを加え、メシの種にしたのが宋儒であることはたびたび書いた。

だがこのオカルトは今なおメシの種になっている。

生まれつきをアプリオリと横文字で言えば、もっともらしく聞こえる。だが聞こえる理由は聞いた者が、西洋哲学業者にだまされているからだ、半可通の旧制高校生以来、デカンショを持ち上げる連中はその類の業者で、デカンショも神を否定しないからオカルトに他ならない。

19世紀後半に蒸気機関などの発達によって神が怪しまれてくると、西洋人は神の代わりにマルクス主義を据えた。性を無視した共に分け合う共産社会というメルヘンを中心に据えたからには、マルクス主義も所詮宗教だ。宗教だからこそ、狂信的に世界中で人殺しをして回った。

西洋哲学を専攻した者にはとある信念があり、それは哲学とはすなわち西洋哲学であり、それ以外の中国やらインドやらは、思想でありオカルトに過ぎないと馬鹿にする。これは会った者に例外がないから、おそらく哲学教授どもが学生にそう教え込んでいるのだろう。

数理的でない、という批判なら確かに当たっている。だがそうやって人を馬鹿にする哲学ものは教師も学生も雁首揃えて数学が出来ず、数学者や物理学者の方が、かえってブッダの言葉に敬意を払う。その証拠にその類の哲学屋に、テンソル解析とか素粒子のスピンを語るとよい。

耳にした途端に怖じ気づいて黙り込むから面白い。ただし理系ものは西洋哲学含めて人文を馬鹿にしているし、文転ものもなおせせら笑うかも知れない。だが文転の理由を聞いてみると、とどのつまりは自分の数理力に絶望して、文転すればのし上げれるとの期待だったりする。

4月の駒場あたりで、一晩ウンウンうなっても解けない高等数式を隣の席に座った者が、教授が黒板にかくそばから解いてしまうのを見て、肝を潰したからだったりもする。だがどの分野もなめてかかれるような世界は所詮価値が無く、通達するには根気も才能も要る。

人をおとしめればおとしめられる。馬鹿にすれば嫌われる。当たり前の道理を、いわゆる学問はごまかすくせがある。そうした馬鹿げた覆いを取り払い、宇宙の当たり前に気付こう。それが孔子の語った教説で、その一例は冷戦末期にアメリカが作ったロシアのドラマにもある。

即位初期のピョートル大帝は、姉のソフィアに殺されかけるのだが、その脅威を打ち破ったあとに、「(あんなアバズレ、)ダデ食う虫も好き好きだ」という側近のメンシコフに、「軽蔑するな。どんな愛も貴い」と言ってのけたピョートルの、言葉は深い。

読者諸賢がそうでないことを、祈るばかりだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/kisi/429.html

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