本日の改訂から

先秦の文献では『呂氏春秋』に「生」とある箇所を、『四部叢刊初編』所収の版本では注で「生、性也」というが信じがたい。明清では朱子学が正統とされ、朱子学では『孟子』を重んじるから、それに頭をやられた儒者のデタラメであろう。

始生之者,天也;養成之者,人也。能養天之所生而勿攖之謂天子。天子之動也,以全天為故者也。此官之所自立也。立官者以全也。今世之惑主,多官而反以害生,則失所為立之矣。譬之若修兵者,以備寇也,今修兵而反以自攻,則亦失所為修之矣。

呂氏春秋 本生1
生命の始まりは天である。天に養われて姿を形作ったのが人である。天が生み出した者を養うことが出来、いじめない者を天子という。天子の行動は、全て天に根拠を持っているからだ。

だから政府というのはあるべくしてあるのであり、存在意義を問われない。政府の役割は人の生命を保証することにあるからだ。ところが今の諸王は、むやみに巨大な政府を組織して、却って人の生命を脅かしている。つまり存在意義を失っているのだ。

例えば軍備は侵略を防ぐためにあるはずが、今の諸王は逆に侵略のために軍備を整えている。つまり軍隊の存在意義を失っているのだ。(『呂氏春秋』本生1)

下記するように戦国時代の儒家の間では、人の生まれつきの性質がか悪かで学派を二つに割る論争があったのだが、結局漢帝国で皇帝に気に入られた儒者が性善説を解いた孟子の系統を引くという偶然によって、性善説が正統な帝国イデオロギーとして採用された。

その後の王朝もこれを受け継いだから、性善説は正統のままだったが、宋代になって朱子学が興り、これが明清帝国の正統な帝国イデオロギーとして採用されると、朱子学で重んじる四書=『論語』『孟子』『大学』『中庸』が科挙の必須教科書として採用された。

畢沅
結果、儒者は孟子派ばかりになり、その連中が暇にあかせてありとあらゆる古典に「性」っぽい漢字を見つけると、片端から「性也」と書き込んだ。上掲『呂氏春秋』もその一例で、科挙官僚出身でホモの畢沅による書き込みである。もとより思い込みの結果でありデタラメだ。


人が出来るのはせいぜい教育しかないだろう。

孔子はそれを重々承知で、本章の言葉を言ったと思いたい。だが上掲『呂氏春秋』にデタラメを書き込んだ畢沅のような、ホモは教育でどうにかなるのだろうか。これは好き嫌いと言うべきで、教育すべきものではないだろうし、説教したところで変わりはすまい。

畢沅は清朝最盛期の乾隆年間に、軍機処出仕・状元・翰林院侍読・湖広総督という超エリートコースを歩んだから、人の十人や二十人、勝手にあの世へ送れる権力があった。一方ホモの相手は俳優という、社会の底辺だった。この関係をどう解釈するかは人それぞれだろう。

実際、畢沅の悪政に反乱が起きたのに対し、数十万を皆殺しにしている。

嘉慶元年春,湖北教匪起,永保奉詔入京,行抵西安,命偕將軍恆瑞率駐防兵二千,調陝西、廣西、山東兵五千會剿。三月,至湖北,總督畢沅疏陳各路剿殺不下數万,而賊起益熾。

嘉慶元年(1796)春、湖北省で白蓮教徒が反乱を起こし、満洲族の永保将軍が勅令により北京に参上した後西安に赴き、駐屯軍の将軍で皇族だった恆瑞と、その二千の兵と共に、陝西・公西・山東ので兵五千を編成し、鎮圧に向かった。三月、鎮圧軍は湖北に至ったが、総督の畢沅が報告するには、「各地方で殺した叛徒は数万を下りません。」ところがその結果、反乱はますます盛んになった。(『清史稿』巻345)

なお清の制度では、地方の最高長官に総督と順撫があるが、総督は民政長官であると同時に、地方軍の最高司令官でもある。乱は鎮圧され、ほどなく死去した畢沅は褒美をもらったが、上皇の乾隆帝が世を去り嘉慶帝が親政を始めると、死後の畢沅は処罰された。

旋卒,贈太子太保。四年,追論沅教匪初起失察貽誤,濫用軍需帑項,奪世職,籍其家。

畢沅が死去すると、太子太保(皇太子最高教官)の名誉職を追贈された。だが嘉慶四年(1799)、反乱の鎮圧に手落ちがあり、軍費をむだ遣いしたという理由で、軽車都尉(機甲総監)の世職(名誉称号)を奪われ、遺族は免税の特権を奪われた。(『清史稿』巻332)

なお「性」の字の構成は心+生で、生まれつきの心を言う。つまり食欲性欲睡眠欲のことで、程度は矯正の対象になっても、そのものはなりようがない。ホモも性欲の一種だから、畢沅の矯正はしようがないわけだ。論語の本章、「性相近し、習い相遠し」とは本当だろうか。

最後に、畢沅のホモをバラしたのは趙翼で、状元になるはずのを皇帝の気分で没にされ、その後の官途も不遇が続いた。その結果ひねくれ知識人として却って今に名が残るのだが、畢沅をねたんでバラしたのは疑いない。古今東西、人間はこういう部分が変わらない。

だから「生」は「相近い」のだろう。

京師梨園中有色藝者,士大夫往往與相狎。庚午、辛未間,慶成班有方俊官,頗韶靚,為吾鄉庄本淳舍人所昵。本淳旋得大魁。後寶和班有李桂官者,亦波峭可喜。畢秋帆舍人狎之,亦得修撰。故方、李皆有狀元夫人之目,余皆識之。

論語 清儒
帝都北京の俳優にはホモがおり、帝都在勤の官僚にも少なからぬホモがいて、互いの間で*ったり*られたりしていた。

乾隆十五年(1570)から翌年の間では、劇場の慶成組がホモ官僚にひいきされた。とりわけ方俊官という俳優は、ホモ的な色香がすごかったので、私の同郷人である荘培因と契りを結んだ。そして荘は状元に受かった。

その後では劇場の宝和組に李桂官という俳優がいて、いかつい顔がホモ好みだった。それで畢沅に迫られて契りを結んだが、畢も状元になって皇帝秘書官になった。

こういうことが続いたから、状元の奥さん連中は、李桂官が舞台に出て来るたびに、「寝取られるんじゃないか」とキツい目つきで見た。それを私は直に知っている。(趙翼『檐曝雜記』梨園色芸)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/youka/436.html

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