本日の改訂から

公山弗擾(コウサンフツジョウ)→公山不擾

『春秋左氏伝』で「公山」を引くと公山不狃しか出てこないので、どのような一族の所属か不明。『潜夫論』に「魯之公故…公山氏…皆魯姬姓也」とあり、魯公の一族とするが、後漢の儒者は頭が悪い上にデタラメばかり書くので、信用できない。

弗pi̯wət(入)不pi̯ŭɡ(平/上)はともに否定辞の機能を持ちながら、音が違いすぎるため、音通ではなく後世の儒者による改竄と思われる。

ただし「不」と「弗」は共に原義が否定辞ではないのだが、どちらの方が否定辞の語義を獲得したのが早いかは分からない。孔子生誕ごろの金文「叔夷鎛」には、すでに「弗」を否定辞に用いた例があり、出典不明ながら「不」の金文も同様であると『字通』はいう。

擾ȵi̯oɡ(上)は”乱す”の意で、「弗擾」「不擾」で”騒動を起こさない忠実者”の意だろう。狃n(上)は”慣れる”の意で、「不狃」で”あるじの言うことを聞かぬ不忠者”の意となる。現伝『左伝』『史記』が「不狃」と記しているのは後世の価値判断での断罪で、うそデタラメと言ってよい。

おじゃる公家 中島敦
また公山不狃に「こうざんふちゅう」とふりがなを付ける版本は少なからずあるが、おじゃる公家のデタラメか、くそ坊主の知ったかぶりか、江戸のちんこ儒者のハッタリを猿真似しているだけだから、いい加減やめた方がいい。現代日本でのこのニオイの元は、幼女でもさらいかねない顔をしながら、「耽美派」を自称した中島敦である(→日本儒教史・たわけの集まり)。


孔子が後ろ暗い政治的陰謀を働いたことは、孔子と入れ替わるように春秋末・戦国の世を生きた墨子の証言にある通りだろう。論語の本章は、論語で飯を食っていた儒者と、孔子聖者説に頭をやられた人には意外か不愉快だろうが、文字的には史実を疑う要素が無い。

また公山不擾を腹黒い儒者の尻馬に乗って、不忠者と断罪するのは間が抜けている。不勉強な日本の漢学教授や世間師の尻馬はなおさらだ。公山不擾は陽虎や季孫家との関係が深いが、三者とも三者なりの事情があって、主家に逆らっていたからだ。

『春秋左氏伝』を見よう。

六月,季平子行東野,還,未至,丙申,卒于房,陽虎將以璵璠斂,仲梁懷弗與,曰,改步改玉,陽虎欲逐之,告公山不狃,不狃曰,彼為君也,子何怨焉,既葬,桓子行東野,及費子洩為費宰,逆勞於郊,桓子敬之,勞仲梁懷,仲梁懷弗敬,子洩怒,謂陽虎,子行之乎。

定公五年(BC505)六月、魯国門閥家老筆頭の季孫家の当主、季平子が東方の原野で狩りをしたが、帰る途中に急病にかかり、ひのえさるの日、房のまちで世を去った。執事の陽虎は、璵璠ヨハンという宝石を副葬品にしようとしたが、同僚の仲梁懐が「歩き方を変えたんだ。玉の扱いも変えて当然だ」と言って渡さなかった。

陽虎は腹を立て、仲梁懐を季孫家から追い出そうと企み、公山不狃=不擾に相談した。不擾が言った。「彼もまた、あるじ殿への忠義から言ったことです。あなたが恨むのは筋違いでしょう。」

葬儀が終わって、あとを継いだ季桓子が東方の原野で狩りをし、ついで根拠地の費のまちに向かった。代官の子洩はまちの外れまで一行を出迎え、季桓子にお辞儀した。季桓子は「ご苦労」と声を掛けた。子洩は仲梁懐にもお辞儀して迎えたが、仲梁懐は知らん顔をして通り過ぎた。

それを見て子洩は怒り、陽虎に「なぜ仲梁懐に好き勝手させておくのです」と言った。

(『春秋左氏伝』定公五年)

『春秋左氏伝』にはすでに意味が分からなくなった言葉が少なくなく、「歩き方…」もその一例だが、だからと言って注と称する後世の儒者のデタラメは、まるで信用ならないから記さない。ともあれ、陽虎も公山不擾も、宮仕えの身としてそれなりにまともであると読み取れる。

なお一点だけ儒者の御託を記せば、「東野」は一説にまちの名で、衛国でも確認できるほか、御者の名手として「東野畢」の名が知られる。「季氏の所領である」と注を付けたのは三国時代の杜預だが、もとより論拠の無い話で鵜呑みに出来ない。
春秋左氏伝 定公五年

(七月)乙亥,陽虎囚季桓子,及公父文伯,而逐仲梁,懷,冬,十月,丁亥,殺公何藐,己丑,盟桓子于稷門之內,庚寅,大詛逐公父歜及秦遄,皆奔齊。

七月きのといの日、陽虎は季桓子を監禁し、公父文伯も捕らえた。その上で仲梁懐を追放した。冬十月ひのといの日、公何バクを殺し、二日後には都城の大門の一つで季桓子に一筆書かせて解放し、翌日に神主を集めて、派手にのろいの儀式をやらせた。さらに公父ショクと秦センを追放し、二人は斉へ逃げた。(同上)

この一ケ月程度での陽虎の変貌を、儒者の尻馬に乗って「悪逆無道な男だからだ」と言うのは、知性的とは思えない。こんな奴に仕えてはいられない、と陽虎に思わせる何かが、新当主の季桓子にあったと見るべきだ。アニメの世界ではないのだ、人の世はもっと複雑である。

その三年後。

季寤,公鉏極,公山不狃,皆不得志於季氏,叔孫輒無寵於叔孫氏,叔仲志不得志於魯,故五人因陽虎,陽虎欲去三桓,以季寤更季氏,以叔孫輒更叔孫氏,己更孟氏

と公ショ極と公山不狃=不擾は、そろって季孫家の家臣だったが、思い通りの出世が果たせないでいた。同様に魯国門閥家老家の叔孫家では、叔孫チョウが当主に冷たく扱われ、叔仲志は魯の朝廷に仕えていたが、やはり冷遇されていた。だからこの五人は季孫家の執事である陽虎を頼り、陽虎も門閥三家老家の当主を追い払おうと考えていた。成功のあかつきには、季寤更を季孫家の、叔孫輒を叔孫家の当主に据え、自分は孟孫家に取って代わろうと企んだ。(『春秋左氏伝』定公八年)

同年(BC502)の正月、陽虎は定公の親征に付き添い、事実上の総大将として斉と戦っている。だがこの記事のあと反乱を起こし、孟孫家の機転で鎮圧される。そして翌年、亡命した斉で捕らわれ、八百屋のネギに紛れて脱出した。この時公山不擾が何をしていたかは分からない。

さらに四年後。

仲由為季氏宰。將墮三都,於是叔孫氏墮郈,季氏將墮費,公山不狃,叔孫輒,帥費人以襲魯,公與三子入于季氏之宮,登武子之臺,費人攻之弗克,入及公側,仲尼命申句須,樂頎,下伐之,費人北,國人追之,敗諸姑蔑,二子奔齊,遂墮費

子路が季氏の執事になり、(孔子の指示で)門閥三家老家の根城を破壊しようとした。これに従い叔孫氏が郈のまちの城壁を壊すと、季孫氏も費の城壁を壊しに掛かった。すると公山不狃=不擾と叔孫輒が、費の住人を武装させて魯の国都を襲った。定公と三家老は季氏の屋敷に逃げ込み、昔の当主が立てた天守閣に立てこもった。そこへ費の軍勢が正面から攻め寄せたが落とせなかった。さらに費軍が側面に回り込んで攻め立てると、天守閣にいた孔子は申句須・楽キキの二将に反撃を命じた。費軍が負けて逃げ出すと、都城の者がわらわらと集まって追い始めた。費軍は姑蔑で潰滅し、不擾と輒は斉に亡命し、その勢いで費の城壁は壊された。(『春秋左氏伝』定公十二年=BC498)

つまり陽虎が亡命してからもなお四年間、公山不擾は季孫家に止まり費邑の代官を務めてはいたが、主家の季孫家からは半ば独立していたのだろう。論語の本章はおそらくその事情を伝える話で、仕官前の孔子は呼ばれてハイハイと応じようとしたわけだ。

だが子路に止められ、その後魯の朝廷に仕官が叶い、出世して宰相代理にまでなった。権力を手にしたからには公山不擾などどうでもよく、自分の権力の邪魔になる独立勢力を潰すため、そうしたまちの城壁を破壊し始めた。公山不擾はたまらず反乱を起こすに至った。

さらに11年後。

(哀公八年)吳為邾故,將伐魯,問於叔孫輒,叔孫輒對曰,魯有名而無情,伐之必得志焉,退而告公山不狃,公山不狃曰,非禮也,君子違不適讎國,未臣而有伐之,奔命焉,死之可也,所託也則隱,且夫人之行也,不以所惡廢鄉,今子以小惡而欲覆宗國,不亦難乎,若使子率,子必辭。

BC487、前年に魯は隣の小国・邾を滅ぼしたが、邾に泣きつかれた呉は、魯の討伐に来襲した。戦に先立って呉王夫差は、叔孫輒の意見を聞いた。

叔孫輒「魯は偽善が甚だしく、実は嫌われています。討伐しても誰も援軍には来ないでしょうから、きっとうまくいきます。」

輒は呉王の前を下がってから公山不狃=不擾と出会ったが、不擾は顔を曇らせて言った。

「君はそれでも貴族か。貴族はたとえ亡命しても、母国の敵国には行かないものだ。もし行っても仕えないものだ。それなのに母国を撃つ手助けをせっせとするぐらいなら、死んだ方がましだ。手を貸せと言われたら、逃げるべきだろう。故郷を捨てたからといって、憎むようなことはせぬものだ。いま君は、小さな恨みを理由に母国を滅ぼそうとしている。悪党と言われても仕方が無い。だから従軍せよと言われても、君は絶対断るべきだ。」(『春秋左氏伝』哀公八年)

理由不明ながら、魯を追われた叔孫輒と公山不擾は、この時呉にいたようだ。ここでの不擾の発言は、「悪逆無道」の男のそれではない。政治は一瞬先は闇と昭和後半の政治業者も言った。食うか食われるかの春秋政界はなおさら、右往左往を責めてよい理由にはならない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/youka/439.html

なお状元の偉さと当てにならなさは、宮崎博士も強調しているが、例の『笑府』も次のように言う。

一士灼龜。問前程。卜者曰。冲天甲乙何用。士曰。鄉試曰。定是解元。丙丁何用。士曰會試。曰定自會元。腰問甲乙何用。士曰廷試。曰。又是狀元。丙丁何用。士曰散遺才。曰這利不稳。

論語 笑府 馮夢竜
ある儒者が科挙の受験前に、カメ占いの店に入った。

易者「さて何をおたずねで」
儒者「郷試(一次試験)はどうだろう?」
易者「解元(郷試の首席合格)と出ましたぞ。」

易者「次は何をおたずねで」
儒者「会試(二次試験)はどうだろう?」
易者「会元(会試の首席合格)と出ましたぞ。」

易者「次は何をおたずねで」
儒者「廷試(=殿試。最終試験)はどうだろう?」
易者「状元と出ましたぞ。」

易者「次は何をおたずねで」
儒者「散遺才(帝室名誉顧問官?)はどうだろう?」
易者「それはどうも怪しいですな。」(『笑府』巻二灼亀)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/youka/436.html

日本の戦国武者そっくりだ。なお関ヶ原の裏切り者として名を残した小早川秀秋は別名を小早川金吾と言うが、金吾とは漢の執金吾郎という官名が元であり、左衛門督のカッコつけた言い方。だがそもそも執金吾郎が偽善のカタマリだ。

執金吾郎の執とは”腕にとる”の意で、金吾とは石突きに金メッキのかねを施した梧=アオギリの棒。郎とは皇帝の殿中に仕える文武官を言う。アオギリの棒で突いたり叩いたりすれば折れるに決まっており、要するに寺の内装と同じく見る者を脅かすためのハッタリだ。

棒術の有段者として、そう断言できる。

https://hayaron.kyukyodo.work/kaisetu/gokan-dqn.html

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