本日の改訂から

定州漢墓竹簡『論語』の記載が正しければ、ふだ553号に記された本章は下記の通り。

…………………………………………三人焉簡553号

簡の一枚には19-21字記してあったというから、解読不能部分の「…」に現伝論語と同内容「微子去之箕子爲之奴比干諫而死孔子曰殷有」の19字が記されていたとするのには、たった1字の超過ではあるが、それでも無理がある。省いても文意が変わらない、「而」の字が無かったのだろうか?

京大蔵唐石経
それでもなお、「人」を「仁」に書き換えて、本章を仁者ばなしに仕立て上げたのは後漢儒だろう。上掲京大蔵唐石経にも「三仁」になっている。だが定州竹簡論語の段階=前漢宣帝期では、孔子は「三人いた」としか言っていない。

「微子篇というからには微子ばなしが書いてあったのだろう」という説は、もっともらしいが実は怪しい。現伝論語の篇名がいつ付けられたか、後漢末以前より昔には確かめようがないからだ。ただし『論語集釋』に言う通り、ほぼ同文が『史記』にある。

太史公曰:孔子稱「微子去之,箕子為之奴,比干諫而死,殷有三仁焉」。(『史記』宋世家58)

従って前漢の時点で、本章が現伝と同内容だったと断じてよい。だがただし、現伝『史記』が司馬遷の書いたとおりだとする証拠はどこにも無く、世界最古の版本は国立歴史民俗博物館蔵の南宋版で(下掲)、「微子…三仁焉。」と左三行目から記されている(クリックで拡大)。

宋版史記

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/bisi/461.html

それより本章で注目すべきは、漢帝国では決して使われぬはずの「邦」の字で、上記の通り漢の高祖劉邦のいみ名(本名)だから、漢帝国治下でこう書いたら首を刎ねられる重罪だった。それが堂々と書かれていることは、現伝の本章が後漢滅亡後の成立であることを証す。

  • 漢石経「母之國」
  • 現伝論語「母之邦」

定州竹簡論語に無くとも、漢石経に本章があるからには、本章そのものは後漢末には成立していただろうが、後漢滅亡後、一体何を根拠に「國」を「邦」に書き戻した﹅﹅﹅のだろう?論語の本章に関する、現存する最古の版本は断片的な漢石経であり、後漢末期より以前には遡れない。

漢帝国成立以前に本章があったなら、そこに「母之邦」と書かれていた可能性があり、もし現伝論語がまじめに書き戻されたなら、後漢滅亡後にもその古本が残っていたはずなのだが。だがいわゆる魯論語や斉論語や古論語すら、一冊残らず焼いてしまった中国人である。

いったいどこに漢より前の記録を残していたのか? そんな可能性は極めて低いだろう。それより後漢滅亡後、経典類をいじくって「國→邦」に書き換えるキャンペーンがあったとする方がうなずける。なお京大蔵唐石経では、「邦」と記されている。
京大蔵唐石経

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/bisi/462.html

陽虎は孔子と同じく、どこの馬の骨とも分からぬ身分から身を起こし、一国の宰相格になった、孔子の先行者だった。

若年時の孔子が陽虎から追い払われた記録は『史記』にあるが(孔子世家1)、孔子が陽虎を恐れたという白川博士の説はただの思い込みで、魯国政界を(三桓)門閥三家老家が握っていたのは確かだが、孔子がそれを憎んで三桓と権力闘争に入ったというのはウソである。

ウソの具体像は、すでに実権を奪われた魯の国公・定公を孔子が擁護し、定公に逆らう実権者だった三桓の根拠地を、「礼に反する」という理由で破壊した。城二つまでは破壊できたが、残る一つに抵抗されて失敗し、孔子は失脚を悟って国を出たという(孔子世家8)。

事実は、三桓も根城の代官に突き上げられて、孔子の政策を支持していた。

一番の証拠は、政争に敗れたら国公だろうと殺されるのが当たり前の春秋政界で、孔子は処刑どころかあからさまな追放処分も受けておらず(孔子世家9)、言わば勝手に放浪に出たと言ってよい。孔子自身も弟子の子路も、季孫家に重用されており、三桓との仲は良好だった。

三桓を悪者呼ばわりし、孔子による対決を言い出したのは、主に帝政開始以降の儒者官僚で、儒者は自派がどれほど帝権の維持に寄与するかを必死に訴えるために、うそデタラメを言いふらした。現代日本の漢学教授や物書きも、漢文が読めないのが普通なので当てにならない。

儒者どものうそデタラメを再放送して、世間から金をせびり取っている。三桓の横暴や孔子一門との対立について、現代の論語読者が信じるべき元データは、ただの一つもありはしない。陽虎についても同様で、孔子は先達として陽虎をじっと観察し、参考にしていた。

「陽虎の弱点は、貴族界の常識を無視したことだ」(『孔子家語』弁物7)と見抜き、自分は貴族らしさ=礼を身につけ、弟子には当時の貴族に相応しい技能と教養を伝授した(論語における君子)。それゆえの孔子の出世、失脚後の自由自在、そして後世に名を残した一因である。

儒教がそのような地位を獲得したのは偶然で、幼少期の前漢武帝竇太后がいじめ、太后が道教の熱心な信者だったことによる(→論語郷党篇は「愚かしい」のか)。しかも前漢のうちは儒教も圧倒的ではなく、事実上の武帝の後継者宣帝は、儒教を忌み嫌った(『漢書』元帝紀)。

ゆえに帝国儒者のうそデタラメを真に受けるのは、21世紀のこんにち、「偉大なる指導者同志ナニガシ」の英雄譚や、「テンノーはカミサマじゃ」を言って回ると同程度には間が抜けている。自分から間抜けの仲間に入るつもりがないなら、現代人が論語を読む価値もない。

孔子はその程度には、突き抜けた合理主義者だったからだ(→孔子はなぜ偉大なのか)。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/bisi/463.html



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