本日の改訂から

論語 子路 喜び
訳者の好みから言うと、こういう伝説は史実と考えたいのだが、論語の時代に遡れない漢字を取り除くと、話が成立しない。だがそれでも、この話は具体的で、情景が目に浮かぶようだし、よくできている。何らかの史実を反映しているのではないかと思いたい。

なお『論語集釋』のこの部分は、儒者らしい五行が何のというウンチクはあっても、現代の読者にはあまり意味のあるようなことは書いていなかったので、訳を付けなかった。一点例外は、「手をこまねく」のは、少なくとも南宋初期では見られない作法だったという。

引用された原典、明後期の沈徳符万暦野獲編』を記す。

今胥吏之承官長,輿臺之侍主人,與夫偏裨卒伍之事帥守,每見必射袖撒手,以示敬畏。此中外南北通例,而古人不然。如宋岳鄂王初入獄,垂手於庭,立亦欹斜,為隸人呵之曰:「岳飛叉手正立。」岳悚然聽命,是知古以叉手為敬。至今畫家繪僕從皆然,則今之垂手者倨也。古伍伯在公庭,必橫梃待命,其怠傲不遵命者,始直其杖。余觀今禁門守卒與武弁輩,每遇大僚出入,俱直立其杖,大呼送迎,無一人敢橫持者,蓋古今不同制如此。

明儒
現代の下っ端役人は、役所の長官や、こしに担がれた貴人を、これまた下っ端のかごかきや護衛のおまわりと同様に、袖の中で手を合わせて持ち上げ、お辞儀する。これは都も田舎も南北の中国で、変わらぬ作法だ。だが昔の人は違った。

宋の義将・岳鄂王さま(岳飛)は、捕らわれて投獄される際、腕を垂らしたまま傲然と法廷に立っていた。そこへおまわりが「手を腰の前で交差させて気を付け!」と怒鳴った。鄂王さまはびくりとして従ったという。ここから昔は、手を交差させるのが正しい敬礼だったと分かる。

現代の絵描きも下っ端はそう描くが、だから今でも腕をぶら下げるのは無礼に見える。

昔はおまわりの頭が法廷で警護の時、普段は必ず六尺棒を横たえていた。だが被告人が不埒とみると、ただちに棒を立てて威嚇した。これは今でも見られる事で、宮門の門番のたぐいは、大官が通るたびに似た仕草をし、大声で「ナニガシ様のお通り~」と言う。棒を横たえたままの者は一人もいない。多分今も昔もこうだったのだろう。(『万暦野獲編』巻十七1)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/bisi/467a.html

意訳

翌日、隠者の家を出た子路は孔子に追いついて、いきさつを語った。
孔子「ひとかどの隠者だな。お前はもう一度戻って、きちんとお礼を言いなさい。」

しかし隠者の家に着いてみると、すでに出かけた後だった。子路は老人の畑に行ってこう言った。

子路「たしかにご老人のように、宮仕えをしなければ、世間への義理はないでしょう。しかしお子を引き合わせて下さったように、長幼の秩序はご存じではありませんか。かつてはいずれかの御家中だったのでしょうが、どうして浪人して仕舞われたのです。

何かよほど許せぬ事があったのでしょうが、それでは世の中のはみ出し者になってしまうではありませんか。我ら君子が主君に仕えるのは、その人の道を守るためです。君子たる者がそうしなければ、この世から秩序が絶えてしまいます。

もちろん今は乱世で、秩序が崩れてはいます。しかしそんなことは、とうに承知なのですが、我らはやらざるをえないのです。」


論語の本章のこの部分は、「也」など句末の助字に目をつぶれば、前回と違って論語の時代に遡ることが出来る。となると、古く伝えられたのはこの後半であり、いきさつを語るために前半が作られたか、潤色されたのだろう。『春秋』に左氏伝が加わったのと同じ事情である。


しかし伝言させたという情報は本文には無く、後半のセリフも子路のそれと解した方が素直だろう。お説教めいたことは全て孔子の言葉だと、儒者がデタラメを言いふらしたがるのは無理ないが、そうでない現代の読者が、孔子に過度の期待を掛けるべきではない。

孔子使子路反見之,蓋欲告之以君臣之義。而丈人意子路必將復來,故先去之以滅其跡,亦接輿之意也。


朱子「孔子は子路に戻らせて、再度会わせようとした。たぶん君臣の大義を説教したかったのだろう。そして老人は子路がまたやって来ると思っていた。だから先手を打って跡形も無く姿を消した。前々章の接輿がやったのと同じ手口である。」(『論語集注』)

宋儒のどうしようもないオカルトとメルヘンが、ここにも現れている。

しかも孔子は、君子は必ず仕官し、それで身分秩序が保たれる、などとは思っていなかった。そもそも社会の底辺から宰相格にまで出世した孔子が、秩序の大変な破壊者で、君子=貴族に成り上がりたい平民がいれば、誰だろうとその技能と教養を教えたに止まる(→論語における君子)。

中には子張のように有力弟子でありながら、性格的に宮仕えには向いていないと孔子が判断し、学者の道を勧めたふしさえある(論語為政篇18)。やはり平民から身を起こした子路が、老人の浪人を惜しむのには理由が立つが、孔子がわざわざ伝言させる動機がない。

かように論語の本章は、古来議論の多い章だが、本章が後世の創作と思えば、無理にこじつける必要は無くなる。まず子路が翌日に尋ねると老人は「至則行矣」とあり、これを”すでに立ち去って行方知らずであった”と解する例があるが、隠者ならばさもありなん。

だが子供二人と、何羽かのニワトリと共に住んでいる家を、そうホイホイと捨てられるだろうか? それに老人には逃げなければならない、一体どんなわけがあったというのか? 家を捨てたなら畑も捨てたのだろうが、せっかく草引きしたばかりの畑を、なぜ?

隠者はウルトラマンではない。「じょわ」の一言だけで、跡形も無く飛んで行けはしないのだ。衣食住も必要で、子供がいたからにはおかみさんだっていたのだ。だが論語の前章とは違い、孔子は老人を、隠者としてもそれなりに大成した人だと見た。

そして話が事実とすれば、老人は畑仕事に出かけただけであり、実直な子路のことだから、昨日出会った畑に移動して、お礼ついでに話したのだろう。それをしないでぶつぶつと独り言、または隠者の子供に伝言したと解するのは、例によって儒者のデタラメで根拠が無い。

註鄭𤣥曰留言以語丈人之二子也

鄭玄
鄭玄「老人の二人の子に伝言を託したのである。」(『論語集解義疏』)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/bisi/467b.html



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