本日の改訂から

論語の本章について、殷王が一日四度の食事を摂っていたとか、そのたびに楽団がちんちんドンドンと奏でたとか、楽師が紂王から逃げ出したとか、それぞれの楽師の名が何でどこへ行ったとか、全てが後世の儒者によるでっち上げで、考古学的な物証は何一つ無い。

そして上記の検討通り、孔子生前から言われていた話ではない。

本章のような記事は、むしろ漢代にでっち上げられた儒教経典である、『書経』や『礼記』のたぐいにありそうな話で、なぜ論語に含まれたかは謎でしかない。

あるいは他の章の注釈が誤って独立したのだろうか。定州竹簡論語にあることから、前漢にはすでに一章として扱われていたようだが、似たような伝説が前漢の『史記』に見られること、戦国時代の文献にこの話がないことから、おそらく前漢異国の儒者による創作だろう。

下手人と目されるのは、もちろん董仲舒である。

至於殷紂,逆天暴物,殺戮賢知,殘賊百姓。伯夷、太公皆當世賢者,隱處而不為臣。守職之人皆奔走逃亡,入于河海。

董仲舒
(武帝陛下に申し上げます。…)殷の紂王の時代になりまして、天に逆らい万物を苦しめ、賢者や知者を殺し尽くし、万民をいたぶり苦しめました。伯夷や太公望は当時の賢者でしたが、この様子を見て仕えず隠れたのです。朝廷に仕える専門職の者も、みな辞めて逃げ出して、川や海に入りました。(『漢書』董仲舒伝22)

『史記』を編んだ司馬遷は、董仲舒と同じく武帝に仕えたが、武帝のお気に入りである董仲舒の、とりわけインチキを言ったり書いたりすれば、それこそナニだけでなく首までちょん切られるから、遠慮して何も書かなかった。一旦漢が滅んだからこそ、後漢の班固は遠慮無く、董仲舒について書けたわけ。

前漢武帝は、幼少期に祖母など帝室の女性から執拗ないじめを受けたらしい。それら女性が揃って道教を重んじたから、親政開始後に儒家を持ち上げたのは、ただのトラウマの作用である。それに応じるべく董仲舒は、顔回神格化など、ありとあらゆるでっち上げを行った。

煩瑣な礼儀作法はその一つで、論語の本章も、董仲舒の作品と見なしてよい。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/bisi/post-16178.html

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