読解漢文法素案


死ぬ前に漢文の読解に特化した文法をまとめたいとたくらんでいる。漢文の文法書を名乗る本は無数にあって全部読み切れないが、どんな碩学の本でも読解の実用に耐える文法を見たことが無い。しかも私の漢文読解は独学で、中高は当然ながら、大学に入っても私より漢文の読めない教員はざらにいたので、まともに習った覚えが無い。覚えがあるのは北京語だけである。ゆえに自分が読めるようになった跡をたどれば実用文法が出来そうだが、そうは問屋が卸さない。当人が忘れているのが一番の理由だが、何せ大量の漢文を読んできたので、気が付いたら読めるようになっていたというのが正直な告白だからだ。そこを無理に理屈を付けると一つの事に行き当たる。漢文には二つしか構造が無いことだ。それは対等構造と支配構造だ。対等構造とは「河川」のような漢語を言う。河が川と対等に並立しており、どちらが主語述語でも、修飾語でも被修飾語でもない。この中には「平和」と「和平」のように、語順が定まらないものさえある。微妙な意味の違いを言い立てることはできるが、英語に直せばどちらもpeaceだ。だが「事情」と「情事」のように語順を変えると意味ばかりか構造まで変わる漢語がある。ただしこれは日本漢語に限った話で、少なくとも私が習った北京語ではどちらも意味は同じ”じじょう”である。それはさておきもう一つの支配構造とは、「我欲」のように前語が後語を支配する構造である。これを既存の文法では主述構造とか述目構造とか賓語とか、とにかく数多くに分類したがる。これがかえって漢文を分からなくさせているのではなかろうか。「我欲」は”私の欲望”という修飾-被修飾関係にも、”私が望む”という主述関係にも読み取れる。これはその時の都合によってどうとでも変化する。しかも漢語に原則として品詞の区別は無く、同じ語が名詞にも動詞にも形容詞にも副詞にもなりうる。やはりその時の都合によって変化する。そういうものの考え方をする連中がしゃべったり書いたりした言語が漢文だと割り切ればよろしい。それを無理に分類するのは、一つに儒者が分類マニアでろくでもない分類を無慮二千年以上続けてきたのが一つの理由で、日本人でそれを猿真似した者が多かったのが二つ目の理由である。いずれも漢文読解には役立たずだ。話を支配構造に戻せば、「我欲」の二語で支配しているのは我で、されているのは欲である。帝国儒者がデタラメを言いふらす前までは、原則として前が後ろを支配し、その逆はあり得ない。これは「白馬」によく現れていて、支配者は白で馬は支配されている。これを理解しないと「白馬は馬に非ず」という理屈が分からない。

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