本日の改訂から

台湾中央研究院の「小学堂」サーバが停止中。というわけで絵でも描いてお茶を濁す。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/sichou/472.html

レーニン像破壊
https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/sichou/474.html

だが儒者の意見でも、次のようなのを見ると、本章はそもそもでっち上げと思いたくなる。

潘氏集箋:春秋襄公十九年八月丙辰,仲孫蔑卒。二十三年八月己卯,仲孫速卒。蔑卽莊子之父獻子也,其卒之相去不過四年。學而篇稱「三年無改於父之道,可謂孝矣。」莊子襲賢父世卿之位,歷四年之久,左氏傳於盟向伐邾外無所叙述,是其用人行政悉仍父舊,未嘗改易,可知三年無改爲孝,莊子不止三年,尤所難能,是以夫子獨指而稱之。

程樹德
明儒・潘維城『論語古註集箋』から引用する。

『春秋左氏伝』襄公十九年八月丙辰ひのえたつの日、仲孫蔑が死去した。二十三年八月己卯つちのとうの日、仲孫速が死去した。蔑とはつまり荘子の父、孟献子であり、二人が世を去る時の間は四年を過ぎない。

論語学而篇11で「三年父の道を改めなければ、孝行と言ってよい」と讃えられているが、孟荘子が賢明なる父のあとを継いで家老職に就いたのは、四年間である。その間『春秋左氏伝』では、向の地での盟約と、邾国を討伐した話以外記されていない。

つまり孟荘子は父の家臣も方針も改めなかったのだが、これこそが三年改めないのが孝行に値する行為だと知らせる。孟荘子は三年に止まらなかった。そこが難しいところで、ただ孔子様だけが讃えたのである。

引用終わり。(『論語集釋』)

潘維城は真っ直ぐ言いたいことを書いていない。中国ではその時代の支配イデオロギーに不都合なことを書くと、我が身と家族の命が危ないので、もの凄く遠回しな書き方をする。それは現代中国でも大流行りだが、前近代も事情は同じで、孔子の批判は不可能だった。

だから上の文も、ものすごくひねくれた儒者の論理を解きほぐして読まねばならない。

要するに、「たったの四年間しか家政を取らなかったじゃないか。それで父の家臣や方針を変えなかった事のどこがそんなに孝行になるのだ。孔子様のような聖人には超能力で何かが分かったのだろうが、俺は凡人だからよく知らん」と言っている。

仮に論語の本章が、定州竹簡論語に欠けた部分も現伝の通りだったとして、戦国から前漢にかけての間で、「父親の政策と家臣を変えるな」という強い社会的要請があったものと思われる。そのもっとも巨大な力は、始皇帝による秦帝国の統一だろう。

すると論語の本章で、なぜすでにあった「政」の字を、「正」と記しているかに説明がつく。始皇帝のいみ名が、「政」だからだ。秦帝国では儒者が弾圧されたと言うがそれは半ばウソで、儒家も帝国の博士官として採用されていた。「焚書」はあったが「坑儒」は濡れ衣だ。

『史記』も、始皇帝をだまして金を取って逃げた者、ろくでもないクスリを作った者=諸生を罰したとあり、儒家が標的にされたわけではない。こういうウソを始皇帝は極端に嫌ったから、儒家お得意の論語でっち上げは盛んではなかったろうが、やらなかったわけでもない。

本章はその一例。道士が怪しげな薬や海上の仙郷伝説を持ち出して始皇帝に取り入ったように、儒者は開祖の孔子が始皇帝の政治を認めるような発言をしていたとして、本章のような創作を行い取り入ろうとした。孔子がじかに言ったのでは無く、曽子の又聞きというのがミソ。

本当にそうか、と取り調べを受ければ、一発でウソを白状させられるから、孔子の弟子ではなく家事使用人に過ぎず、所伝のほとんど無かった曽子を道具にして、又聞きという言い逃れの出来る手段を用いたわけ。日本の椿井文書の手口に似ている(論語はどのように作られたか)。

証拠が無いから何も言えない、ではなく、証拠が無いゆえの言いたい放題で、現代でもいわゆる南京虐殺事件の被害者が、年を追うごとにどんどん増えているのと同様。中国人を理解するには、福禄寿のためなら何でもする昆虫の如き合理性のある生き物と知らねばならない。

儒者も秦帝国時代を、したたかに生きたのだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/sichou/489.html



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