本日の改訂から

患不知也

論語の本章では”知らない事を気にかけよ”。主語が省略されているが、主語が変更された記号も特にないので、上の句の「不患人之…」と同じく”自分”と解するのが妥当。「知」の目的語が無いが、上の句の「人之不己知」の対句となるには、「人」と解するのが妥当。

結局本章に関しては、従来通りの解釈でよい。『論語集釋』は言う。

中論考僞篇引「不患人之不己知,」「知」下有「者」字。釋文:「患不知也」,本或作「患己不知人也」。俗本妄加字。今本「患不知人也」。皇本作「不患人之不己知也患己不知人也。」臧琳經義雜記:蓋與里仁「不患莫己知,求爲可知也」、先進「居則曰:不吾知也。如或知爾,則何以哉」語意相同。今邢疏本作「患不知人也」,「人」字淺人所加。潘氏集箋:邢疏本無王注,皇本有之。今據注意,則釋文所云「本或作『患己不知人也』」似卽王本。
劉氏正義:皇本有。王注云:「但患己之無能知也。」己無能知,卽未有知之義,則皇本「人」字爲俗妄加無疑。天文本論語校勘記:古本、足利本、唐本、津藩本、正平本均作「患己不知人也」。

程樹德
後漢の『中論』考偽篇には「不患人之不己知」とあって、「知」の下に「者」の字が付いている。隋末の『経典釈文』には「患不知也」とあって、もとはあるいは「患己不知人也」だったという。俗な本ではむやみに字を書き足している。現伝本では「患不知人也」。皇侃の『論語義疏』では、「不患人之不己知也患己不知人也」と記す。

清儒・臧琳の『経義雑記』は言う。「里仁篇の”不患莫己知、求爲可知也”と、先進篇の”居則曰、不吾知也。如或知爾、則何以哉”と多分意味は同じだ。だが今通用している邢昺の『論語注疏』では、”患不知人也”と記している。教養の足りない連中が、書き加えたのだ。」

明儒・潘維城の『論語古註集箋』は言う。「邢昺の注疏本には王粛の注が記されていない。皇侃の義疏本にはある。考えてみるに、『経典釈文』のいう「もとはあるいは”患己不知人也”だった」というのは、王粛の注を指している。」

清儒・劉宝楠『論語正義』は言う。「皇侃の義疏本には記されている。王粛の注にいわく、”ひとえに自分が知ることが出来ないのを気にかける”。自分が知ることが出来ない、というなら、つまり”自分はまだ知らない”ということであり、皇侃の義疏本にある”人”の字は、無教養な連中が勝手に書き加えたこと疑いない。日本の天文本『論語』校勘記は言う。「古本、足利本、唐本、津藩本、正平本はすべて”患己不知人也”と記す」。

多くの読者諸賢には無意味な引用をしてしまったが、ただいたずらに先人の解釈をパクパク食べるだけでなく、本当にそうかと思い、しつこく調べ上げないと、上記したように「従来通りの解釈でよい」などと偉そうな事は書けない。無名な訳者には作業過程の公開が要る。

そうでもないと、信用して貰えないからだ。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/gakuji/016.html

論語をはじめとする中華文明と、洪水との縁は深い。

黄河 流路 変遷
黄河は史上、何度も流路を変えたし、そのたび事に大規模な洪水があったことは疑いない。1939年に蒋介石が意図的に起こした洪水は、前後の洪水と合わせて、多くて400万人の死者を出したとされる。古代でも洪水の脅威は、中国人万人に共有されていた。

その自然災害の予兆をいち早く感じ、人々に納得できるよう言葉に出来たのがすなわち聖人であり、論語の時代では道徳的な価値でそう呼ばれたわけではない。地道に観察し、記録を取り、類推できる能力者であり、孔子が必須科目として算術を入れたのは一つにそのためだ。

外国でプログラミングの経験の無い人に、初歩的なアプリを作って示すと、まるで「不思議の国から来た魔女のように扱われた」と訳者の旧友は言った。現代でも一部の技術者が崇拝の対象になることがあるが、それではかえって数理から遠ざかるし、論語の理解にも邪魔になる。

自分では聖人であることを否定した孔子は(論語述而篇33)、その数理的観察力と記帳によって、正確な帳簿を付け牧場の家畜を殖やし、国公や門閥貴族の注目を引いたとされる(『史記』孔子世家)。文明のか細い古代にあって、合理と数理能力が、孔子を孔子にした。

だが元から地道に観察し、記録を取り、公理を導く科学者として世に出た者が、そのまま合理性を保てるとは限らない。岡潔のように、晩年は宗教の開祖みたくなってしまった者もいる。又聞きでしか無いが、その漢籍理解も知ったかぶりのデタラメが多くて、聞くに堪えない。

だが孔子は死の直前まで、「怪力乱神を語らず」(論語述而篇20)を貫いた。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/isei/020.html

論語の本章の問い手である孟武伯にとって、孔子は子供の頃から可愛がってくれた”おじさま”であり、問答の時期も、おそらく孔子の帰国後で、かつ父の孟懿子モウイシが死去する前後だろう。叔父と共に留学した孔子が同世代とすれば、孔子亡命前の孟武伯はまだ子供に過ぎない。

つまり論語の本章は、これから政界に打って出る覚悟を、孟武伯が固めた時期だった。

孟武伯
中国は古代から現中共政府が言うのとは別の意味で「独特の民主主義」であり、春秋の大貴族は譜代の家臣や領民にそっぽを向かれると、まず天寿を全うできない。少なくとも地位は追われる。孟武伯は哀公にそっぽを向いて客死させ、二代前の昭公も同じ目に遭った。

中国に「忠」の字が現れるのは戦国時代になってからだ。要するに論語の時代、「孝子」はあり得ても「忠臣」はあり得ない。事は孟孫家にとっても同じで、孔子失脚の発端となった三都破壊の失敗は、孟孫家の譜代家臣が抵抗したのを、孟懿子が黙認せざるを得なかったからだ。

その代わり孟懿子は、領民に慕われていたことが『左伝』に見える。

哀公十四年…秋,八月,辛丑,孟懿子卒,成人奔喪,弗內,袒免哭于衢,聽共,弗許,懼,不歸。

春秋左氏伝 定公五年
哀公十四年(BC480)…秋八月かのとうしの日、孟懿子が死去した。孟孫家の根城である成邑の住人が葬儀に会葬に走り来たが、孟孫家は都城曲阜の屋敷に入るのを許さなかった。住人は衣を脱いで左肩をあらわにし、冠を取ってもとどりのまま、街路で泣きまねをし、葬列に加わることを願ったが許さなかった。そこで住人は、「どうしよう」と互いに顔を見合わせたまま、それでも帰らなかった。(『春秋左氏伝』哀公十四年2)

つまり孟武伯にとり、自分が父に対していかに「孝」であることを世間に知らしめるかが、政治生命の一端を握っていた。それゆえに”おじさま”に問うたわけだし、どうすれば「孝」と世間が言ってくれるか、そこまでの含みを持たせて論語の本章は成立している。

なお「忠」が出現した戦国時代でも、戦場から逃げた「五十歩百歩」の、「どちらが卑怯者か」と孟子が梁王に問うているが、以来現代に至るまで、中国兵はいくさになったら当然逃げた。その兵隊に逃げる気を起こさせないのが、孟武伯の当主としての腕の見せ所でもある。

「忠」や「孝」をすり込むこと、つまり人をクルクルパーにして特攻の如き無残をさせるのが、為政者の図々しい役得というもので、孔子の時代にはまだそこまでのデタラメを構築する技術が無かった。だが孔子なら、あるいはそれを知っているかも、と孟武伯は問うた。

それに対して孔子は、あっさり「病気で親に心配かけないように」と言った。後世の儒者は孝行を見せ物にして官職獲得に狂奔し、そのためなら我が子を殺しまでしたが、孔子はそんなデタラメを許さなかったのだ。ごく当たり前に、親に心配かけないことを説いたに過ぎない。

重複を恐れず記せば、儒教と言えば親孝行という「常識」は、少なくとも孔子の教えではない。後漢に流行った二十四孝の如き残忍を伴った偽善(郭巨)には、帝国滅亡直後に葛洪という証言者がいるが(『抱朴子』内編・微旨5)、孔子はそうしたでっち上げとは無縁である。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/isei/022.html



関連記事(一部広告含む)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする