本日の改訂から

憂 金文 憂 字解
(金文)

論語の本章では”うれう”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。「漢語多功能字庫」には、論語読解に関して見るべき情報がない。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。

なお戦前の日本で「ぢっと手を見る」とか書いて謹直そうな臭いを漂わせた石川啄木は、女郎屋通いの金を国語学者の金田一京助にたびたびせびり取った、家族の貧困を気にしないただの遊び人で、人格の壊れ物だったことが判明している。詳細は日本儒教史2を参照。


論語の本章は、後漢初期の王充が『論衡』に再録するまで、誰一人引用していない。本章は前漢末ごろ、王莽とその取り巻きが偽作したと考えるのが一番筋が通る。だがブツとしての文字が論語の時代に全て遡れることから、とりあえず史実性を疑わずに話を進める。

孟武伯問孝,子曰:「父母唯其疾之憂。」武伯善憂父母,故曰「唯其疾之憂」。武伯憂親,懿子違禮。攻其短,荅武伯云「父母唯其疾之憂」,對懿子亦宜言「唯水火之變乃違禮」。周公告小才勑,大材略。子游之、大材也,孔子告之勑;懿子、小才也,告之反略,違周公之志。攻懿子之短,失道理之宜,弟子不難,何哉!

王充

孟武伯が孝行の道を問うた。孔子先生は言った。”父母はひたすら子の病を心配するものです。”武伯はやんちゃが過ぎて父母に心配ばかりかけていたから、”子の病を心配する”と説教したのである。武伯はやんちゃ、父の懿子は礼法破り、だから親子の過ちを正すため、武伯には”子の…”と説教し、孟懿子には”礼法を破っていいのは洪水と火事の時だけ”と教えた。周初の摂政だった周公は、小ヂエの回る者には説教し、大ヂエの回る者にはだいたいの方針だけ教えた。だが孔子先生の弟子の子游は、大ヂエの回る男だったが先生は小言を言った。孟懿子は小ヂエが回るだけの男だったが、先生はだいたいのことしか言わなかった。周公のやり方とは違ったのである。孟懿子のタワケを放置して、真人間に戻してやらなかったが、弟子までそういう面倒を見てやらなかったら、いったいどういうことになっていただろうか。(『論衡』問孔7)

王充が生まれたのは後漢帝国の創業とほぼ同じ時で、論語の時代とは550年ほど遅れるのだが、こういう見てきたようなデタラメをせっせと書き付けて全然悪いとも思っていない点で、他章をも含め王充もまた現伝論語の贋作集団の一味と認めた方が話の分かりがよい。香港の場末でグッチやフェラガモのニセモノをこしらえているのと同じで、その説は聞くに値しない。

王充は共産党の政策から、中国でむやみにもてはやされた時期があり、wikipediaの解説もほぼその筋に沿っており、あまり信用しない方がいい。この男が古論語・魯論語・斉論語などというでっち上げをこしらえたせいで、論語は無慮二千年間誤読された経緯がある。

詳細は後漢というふざけた帝国を参照。日本の中国関係業界は、中国の回し者ばかりが声が大きいから、こういうことは声を励まして言わねばならないのだが、王充は反主流派という理由だけで、中国史最悪のシリアルキラーである毛沢東に気に入られるまで、誰も知らなかった。

こんな奴の言うことを真に受ける者は、頭がおかしいと言われても仕方が無い。

訳者が史料を読む限り、子游は葬儀のちんちんドンドンがうまくて喪主からお布施をせびるだけが能の、「孔門十哲」では一番人格と才能が如何わしい小ヂエ男に過ぎず、孟懿子は門閥の当主として領民から慕われた名君、孟武伯は大国斉の軍勢におじけず一番駆けをした頼もしい若武者で、王充や石川啄木のようなひょろひょろでもなければタワケでもない。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/isei/022.html



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