本日の改訂から

程頤(伊川)は確信的な精神医学上の𠮷外で、他人を見ると「あれもいかん、これもいかん」と口うるさく説教ばかりする男だったらしい。不埒にも科挙に合格し終える前に、皇帝宛てに説教文を書いて出したため、誰からも嫌われて仕官に失敗した。だからこその物言いだろう。

儒学に理気学というオカルトを持ち込んだ張本人でもあり、「分からないからありがたい」というカルト宗教のやり口で、後世の人々を大いに誤らせた罪深い男でもある。だが儒者の説教や坊主の経文を聞いて分かる人がほとんどいないのとは逆に、孔子はオカルトを否定した。

加えて論語の時代、就職マニュアルなど存在しない。そもそも庶民から、最底辺とは言え貴族へのパイプを繋いだのは、ほぼ孔子が中国史上初だったからだ。儒学の根本である礼すらマニュアル化できなかった孔子が、就職マニュアルなど書くわけが無い。

論語の時代、科挙のように制度化された官僚採用があったわけではない。個人的つながりから雇い主が人材を知り、「じゃああの若者を使ってみようか」と国公や大貴族が家臣に加えるわけで、それゆえ論語にも、孔子が口入れ屋を開業していた話が残る(論語先進篇23)。

若き日の孔子が仕官できたのも、孟孫家の先代がたまたま孔子の才能に気付いたからで、孔子の弟子が仕官できたのも、孔子やその伝手を頼ってのことだった。孔子が亡命したのも、大貴族からの不興を被って、弟子を仕官させがたくなったからに他ならない。

また孔子は古代人にかかわらず、天とか神とかを信仰しなかった。いちまちの巫女の私生児としてうまれた孔子は、母が客にやってのける所作に何の意味も無いこと、それに一般人がどれほど怯えるかを、息子だけにうんざりするほど知っていたからだ(→孔子はなぜ偉大なのか)。

対して子張は普通に古代人で、天運を自分に引き寄せる法を学んでいたのだろう。春秋の当時、現伝のような易が整備されてはいなかったが、占いの証拠は多数出土しており、子張が天運に「あづか」りたがったのも無理はない。だが孔子は「そんなものない」とは言わなかった。

最晩年の弟子だったこともあり、子張は孔子に可愛がられていたのだろう。孔子が説いたのは、ひたすら人に出来ることだけであり、ありのままにものを見聞きし、まじめに言動を慎むことだった。「人事を尽くして天命を待つ」、それが論語の本章の教えである。

ただしこの故事成句は、人格的壊れ物が多かった南宋儒の中でも極めつけである胡寅の言葉で、孔子からは1600年以上の時代差がある。胡寅は北宋滅亡時に大学構内に潜んで難を逃れ、南宋が成立すると現れてわあわあとうそ泣きをし、ちゃっかり官職にありついた。

当時の南宋政府は北宋を滅ぼした金朝と講和することでとりあえず成り立っていたのだが、胡寅はうそ泣きしながらその政策を非難し、その目立ちで官職の向上を図った。こういうごきぶりは、自浄能力を持ち得ない役人社会が確立していないと、出てこない種類の生物である。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/isei/034.html



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