本日の改訂から

吉川本など従来の論語本では「孝慈」を”為政者が自分の﹅﹅﹅子や親を愛すること”と解する向きがあるが、民から見れば、「どうぞご勝手に」であり、あまりに間抜けで聞くに値しない。「忠孝」をすり込んで他人を使い潰す役人根性と同じだが、他人を阿呆扱いするにも程がある。

そして孔子をあまりにも馬鹿にしている。古来より日中の論語業界の連中は、こういう自分では信じていないうそデタラメを他人に信じさせ、金を取ったり命を投げ出させたりと、やりたい放題のことをやってきた。戦前の大東文化学院の教員しかり、犬坂大学不名誉教授しかり。

「ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月」(谷文晁)。人とはそうそうだまされてくれない生き物だ。それを熟知して手練手管を使うのが、谷文晁のようなやり手の役人というものだ。漢学教授は阿呆なことを言っても、世間が甘やかすから気付かないらしい。

スターリン
Спасибоスパシーバ родномуラドノーム Сталинуスターリヌ. За счастливоеシャスリーワイェ детствоジェツトワ!
「親愛なるスターリンに感謝。子供たちの幸福を見守る人!」

”他人の子供や老人をいたわる”と解する方が間抜けの度合いは減るが、これも血も涙もない独裁者が人民をだますためによく使う手であり、その意味で論語の本章を真に受けるのは、どこか頭のおかしい人か、「お前だけそうしろ」という図々しい奴しかいないと思う。

論語の本章は、前漢ごろ成立の『小載礼記』によく似た言葉があるほかは、誰も引用していない。新から後漢初期を生きた包咸が上掲の通り注を付けているから、前漢末期に王莽とその取り巻きによって創作されたとみるべきだろう。

子言之:「君子之所謂仁者其難乎!《詩》云:『凱弟君子,民之父母。』凱以強教之;弟以說安之。樂而毋荒,有禮而親,威莊而安,孝慈而敬。使民有父之尊,有母之親。如此而後可以為民父母矣,非至德其孰能如此乎?」

礼記
孔子先生は言った。「君子の身につけるべき仁とは、そうたやすいものではない。詩経に言う、”にこやかで従順な君子は、民の父母”と。「凱」とは能力で人を教えるとこと、「弟」とは喜びで人を安らげることだ。楽しんでもふけらず、折り目正しくても親しみやすい。威厳があってもおだやかであり、子供と老人をいたわってあなどらない。民には父の厳しさと、母の慈しみを思わせる。これらが出来て、やっと民の父母になれるのだ。道徳の極みとしてこれ以上があろうか?」(『小載礼記』表記26)

孔子生前の仁とは、こんな雲を掴むような話でないことは、論語における「仁」を参照。なお前漢の儒者で、司馬遷が教えを受けたという孔安国も注を付けているが、この男は避諱すべき高祖劉邦の「邦」を、平気で記している箇所があるから、存在そのものが如何わしい。

註孔安國曰魯卿季孫肥也康諡也

孔安国
注釈。孔安国「魯の家老である。季孫肥ともいう。康はおくり名である。」(『論語義疏』)

本章最終句の「舉善而敎不能」とは、いわゆる職業訓練を意味しているかも知れないが、そのような行政が出来るようになるのは、民間からデータを取って報告し、政府から命令を受けて社会に執行する役人集団が出来ていないと不可能だ。だが論語の時代にそんなものはない。

公職とは世襲すべきものであり、それをわずかに崩し始めたのが孔子とその一門で、大部分の役人はやはり世襲だった。漢学教授や政治家を見れば誰にでも明らかだが、世襲集団は痴呆化するのが理の当然であり、その結果春秋諸国が立ちゆかなくなったから、孔子が世に出た。

もちろん社会の底辺出身の孔子が宰相にまでなったについては、官職にある阿呆どものせいばかりではない。鋳鉄としての鉄器の普及、その結果としての食糧生産の増大、作るに難しい小麦の普及があった。要するに人の数が増え、さらに贅沢で図々しくなった。

だから”威張ってみせる”だけで、論語の時代の民が大人しくなったと考えるのは間が抜けている。『春秋左氏伝』を読む限り、たしかに帝政時代よりは、貴族も庶民も中国人は、まじめで大人しく思えるが、書いてあることがどこまで本当か、分かったものではない。

また論語の本章では、前章の殿様に引き続き、家老まで孔子の弟子のような扱いをしている。「孔子曰」でなく「子曰」となっているのはその証拠だが、家格で言えば季康子は筆頭家老であり、孔子は臨時雇いの相談役に過ぎない。このあたりは江戸の御家人に似ている。

江戸の幕臣のうち、原則として領主である大名と旗本に対し、給与生活者を御家人という。御家人は本来一代限りの臨時雇いで、もとは戦国の世で雑兵として働く徴集・徴募兵だった。江戸期に入ると事実上世襲になったが、あっという間に痴呆化したのは漢学教授と変わらない。

だが江戸人には「家」が重くのしかかっており、阿呆ばかりだとお家が潰れる。そこで御家人株と言って、御家人になる権利が証券化された。だから才覚のある商人などが身分向上を狙って争って買い、御家人の実子が阿呆ばかりでも、できのよい養子が家を継いだ。

有名なのが勝海舟の祖父だが、商家でも三井家のように、実子にはあとを継がさないという慣習まであった。封建制と実力主義が、上手い具合に組み合わさっていたのである。孔子もはるか古代で異国の、そうした存在と思えばよい。論語の世界がより想像しやすくなるだろう。

季康子を弟子扱いしているのは、同じく家老の孟武伯をそのようにしている論語為政篇6とは事情が違う。孟孫家は二代前から孔子と関わりが深く、孟武伯にとって孔子は「おじさま」だった。季孫家も決して孔子一門と不仲ではなかったが、孟孫家ほどの親密さではない。

論語の本章を創作した漢儒は、そういう想像が働かなかったから、論語先進篇6では同じく季康子との対話でありながら、「孔子曰」となっていることの整合を取る必要に気付かなかった。それに孔子は帝国の儒者官僚が思いたがるような、温和であなどりやすい男ではない。

呉国軍 夫差
孔子の帰国を哀公と季康子が認めた背景には、当時国威発揚中の呉国の軍事力があった。放浪中の孔子と呉国の関係は深く、つまり孔子は外国軍のヒモ付きで帰国した。だから哀公と季康子にとって煙たくはあっても、イソイソと教えを乞いたくなるような存在ではなかった。

重複を恐れず記せば、呉王夫差は軍を率いて北伐の途中、魯国に立ち寄って牛・羊・豚の焼肉セット百人前(百牢)を出せと強要している。困った魯国は家老を言い訳に立てたが、武力で脅されて聞いて貰えず、やむなく用意したと『春秋左氏伝』哀公七年条にある。

孔子は今で言うアメリカや中国の回し者だろうか。そんなワルい男でもあった。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/isei/036.html



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