本日の改訂から

孔子の生前、殷王朝は知られていたが、夏王朝の概念は存在しなかった。漢字の文字史は殷代中期に始まるから、そもそも夏王朝は存在しないのだが、その始祖とされる「禹」という文字は殷代からあった。おそらく人名を意味したようだ。

郭沫若 李学勤
だがそれが、治水を成功させ夏王朝を開いた人物を指す証拠があるわけではない。「夏はあった」と言えば儲かる郭沫若など中共の御用学者が、磨滅した金文を読みたい方向に引きずって解釈して、一生懸命夏王朝の実在を「証明」しようとしているが、信用できるわけがない。

やり口は「消防署の方から来ました」と同じで、中世のローマ坊主が、火あぶりの暇に書いた「神の実在についての証明」という論文を、誰が真に受けるだろう。「禹」の字の文献上の初出は論語だが、論語で「禹」を記した章は全て後世の偽作である。論語語釈「禹」も参照。


論語の本章は、司馬遷が『史記』に再録するまで、春秋戦国の誰一人引用していない。その後、一部だけの引用なら後漢初期の王充(27-97)による『論衡』にある。

周有郁郁之文者,在百世之末也。漢在百世之後,文論辭說,安得不茂?

王充
周は艶やかな文化を築き、百世のちまで存続している。漢帝国は百世の後にあるからその文化を引き継いでおり、詩文や論文、礼儀の言葉や説得の言葉が、なぜ衰えることがあろうか?(『論衡』超奇14)

ただし記録がもう一つあり、論語の本章をほぼすべて取り込んでいる、後漢後期のサイヨウ(133-192)の『蔡中郎集』では、「伝にいわく」となっている(陳太丘碑1)。これは「伝えられた論語によると」の意味なのか、論語以外の「伝によると」の意なのか分からない。

定州竹簡論語に本章が含まれていることから、前者だと割り切って済ませられるが、現伝の論語の成立には、多様は版本が織り交ぜられたことは間違いない。

なお論語の本章に、周が「文なるかな」と讃えられたのには、それなりの理由がある。「二代」のうち夏王朝など存在しなかったし、孔子も知らなかったが、殷は知られていた。そして殷は、むやみに異民族を捕らえて、生きギモを取って占いに用いた。

殷 甲骨文 論語 殷 金文
「殷」(甲骨文・金文)

だから殷以外の人々から、「殷」”人の生きギモを取る残忍な奴ら”と呼ばれ、「殷」はどす黒い血の色をも意味した。殷人自身は「商」”偉大な国”と自称しており、殷人が生け贄にした人骨がごろごろと出てくるから、殷墟”殷の滅びた跡”が人々に注目され発掘されるに至った。

だが周王朝になると、生け贄は野蛮だと思われるようになった。

僖公二十一年(BC639)の夏、日照りが続いたので、雨乞いに失敗したこびとのみこを、(魯国公の)公は焼き殺そうと考えた。

(家老の)ゾウ文仲「そんなことでは日照りは収まりません。城壁を堅固にして飢えた賊の襲来を防ぎ、食事を質素にして出費を減らし、農耕に力を入れて貧者を励ますのが、当面のやるべき事です。みこなど焼き殺して何になるのですか。天がみこを殺すおつもりなら、今なおのうのうと生きている道理が無いではないですか。」(『春秋左氏伝』)

殿様も腹立ち紛れにみこを焼こうとしただけで、焼けば雨が降るとは思っていない。これが「郁郁乎として文なるかな」の意で、明るく物理法則にかなったものの考え方こそが、周代の「文」だった。ところが少し前、殷の末裔である宋の襄公は、懲りずに生け贄をやらかした。

十九年…宋人執滕宣公。夏宋公使邾文公,用鄫子于次睢之社,欲以屬東夷,司馬子魚曰,古者六畜不相為用,小事不用大牲,而況敢用人乎,祭祀以為人也,民,神之主也,用人,其誰饗之,齊桓公存三亡國,以屬諸侯,義士猶曰薄德,今一會而虐二國之君,又用諸淫昏之鬼,將以求霸,不亦難乎,得死為幸。

春秋左氏伝 定公五年
僖公十九年(BC641)、宋の襄公が(会盟を宣言し、遅刻した)滕の宣公に、言いがかりを付けて捕らえてしまった。(同じく遅刻して邾人に捕らえられた鄫の殿様について、)夏になると襄公は命令して、宣公とともに「次睢」という霊域で処刑せよと命じた。「東の蛮族どもが恐れおののいて服属するだろう」というのである。宋国軍司令官の子魚が真っ青になっていさめた。

「いにしえの習いでは、犠牲獣は一匹だけと決まっており、つまらぬ事に犠牲は捧げませんでした。人を犠牲にするなどもってのほかです。そもそも祈るということは、人間のために行うのであり、民や神の利益になるから行うのです。そこに人間を犠牲に出したとして、いったいどなた様が召し上がるのですか。

先頃亡くなった斉の桓公さまは、三つの滅びた国を復活させたのに、正義にうるさい貴族の中には、役得尽くだと悪口を言った者がいます。いま殿は、一度の会盟でお二人の国君を生け贄にしようとし、それも如何わしい神霊に差し出そうとしています。それで覇者になりたいおつもりでしょうが、そんなことでなれはしません。今に死んだ方がましだと思うような目に遭いますぞ。(『春秋左氏伝』)

滕と鄫の殿様が助かったかどうか、史料は沈黙している。

おそらく生け贄にされてしまったのだろう。これを見た春秋諸侯は、襄公を𠮷外だと見なして会盟の呼びかけに応じなくなった。さらに襄公は大国楚にケンカを売って、自分からつまらぬ意地を張って負け、「宋襄の仁」と後世にまで笑われることになった(泓水の戦い)。

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/054.html

論語の本章は、いわゆる漢帝国における儒教の国教化を進めた董仲舒が、前半のみ引用するまで、春秋戦国の誰も引用していない。

臣聞孔子入太廟,每事問,慎之至也。

董仲舒
それがしが聞いたところによると、孔子先生は太廟に入って、所作のあるたびに質問したと言います。慎み深さの至りと言うべきです。(『春秋繁露』郊事對1)

従って事によると、本章は董仲舒のでっち上げの可能性があるもののその証拠を欠き断言できない。ただ本章の孔子の発言は、先秦両漢の誰にも理解出来なかったこと、本八佾篇の複数の章と同じで、だからだろうか、以下を除いて誰も論じようとしなかった。

子入太廟,每事問。不知故問,為人法也。孔子未嘗入廟,廟中禮器,眾多非一,孔子雖聖,何能知之?:「以嘗見,實已知,而復問,為人法?」孔子曰:「疑思問。」疑乃當問邪?實已知,當復問,為人法,孔子知五經,門人從之學,當復行問,以為人法,何故專口授弟子乎?不以已知五經復問為人法,獨以已知太廟復問為人法,聖人用心,何其不一也?以孔子入太廟言之,聖人不能先知,十也。

王充
先生は太廟に入って、所作ごとに質問した。知らないから聞いたのであり、知らない事は確かめるのが人の道というものだ。孔子はそれまで太廟に入った事がなく、祭殿にしつらえてあった祭器は数多くあって一つではない。孔子は聖人だったけれども、どうして初めて見る道具の使い方や意義が分かろうか。

ある人「すでに見たものについて、本当に意義が分かっていて、それでも問うのは、人の道ですか?」孔子「自信の無いことなら、問うて当たり前だ。」

自信が無かったから、孔子は問うたのか? 本当に意義を知っていて、それでもまた確認するのも、人の道と言うべきだ。孔子は儒学の五経に通じたっことになっており、弟子は孔子の言う通り学んだが、何度も質問を重ねるのが、人の道というものだ。

だがどうして、孔子は口伝えに教えるだけで、教科書を書かなかったのだろう。実は孔子は五経に十分通じておらず、だから自信の無いことはたびたび人に問うた。分かってわざわざ太廟で問うたばかりではないのである。聖人とはものの考えが複雑で、何で一つの理由だけで同じ行動をとるものか。

孔子が太廟で質問したことは、聖人だろうとみたことがないものは知らないという、当たり前の事実だ。これがわきまえるべき事実の十番目である。(王充『論衡』知実11)

また孔子を捕まえて「鄹人之子」と言ったのも論語の本章のみで、目が疲れてうっかりすると読み間違う次の例を除いて、先秦両漢の誰も記していない。説いたのは他人のためにはスネ毛一本抜かなかった楊朱とされ、南宋時代の注釈から「疑心暗鬼」の故事成句が生まれた。

人有亡鈇者,意其鄰之子。視其行步,竊鈇也;顏色,竊鈇也;言語,竊鈇也;作動態度,无為而不竊鈇也。俄而抇其谷而得其鈇,他日復見其鄰人之子,動作態度,无似竊鈇者。

楊朱
ある人がまさかりを紛失した。どうも隣家の子が怪しい。そう思ってその歩き方を見ると、いかにも盗っ人のようである。顔つきを見ると、いかにも盗んだような後ろ暗さがある。しゃべっているのを聞くと、いかにも盗んだらしく聞こえる。立ち居振る舞い全てが、盗んでいないとそうはならない。

そんなある日、仕事場の谷を通りがかると、斧が置いたままにあった。それから隣家の子を見ると、立ち居振る舞い全てに、全然怪しいところがない。(世の中そんなもので、人の思い込みほどあてにならないものはない。)(『列子』説符34)

https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/hatiitu/055.html



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